早々と自宅に戻り、すぐにS弁護士の件で家族に連絡を入れた。当時、地元に住んでいた姉をはじめ、東京にいる姉らからは、「引き受けてくれるなら、任せて、お願いした方がいい」という返事を貰った。
この時、おそらく姉たちは、盗られたお金は、S弁護士にお願いすれば、すべて戻ってくると認識していたに違いない。素人市民は、弁護士が発する言葉に影響を強く受ける。まして司法と無縁の人間なら、なおさらである。
それゆえ、S弁護士が言った「勝てますよ」という言葉への期待は高かった。私も、そう強く信じていた。ニューヨークの兄にも連絡すると、兄も「やっと、まともな弁護士に出会ったな。そうでないといかん」と、S弁護士への好感を示した。父も同様だった。
今振り返ると、「勝てます」という意味は、刑事裁判では、「15万円」で確定している。つまり、刑事裁判よりも、最終的に使途不明となったお金が少しでも多く犯人側から、返ってくれば「勝利」という意味だったのではないか、という気がしてしまう。
家族みんなの了解を得、内心ほっとし、私は、リビングのソファに腰かけた。改めてその時思ったのは、都会の弁護士と地元の弁護士の対応の仕方の違いであった。おなじ一つの事件を解決するのに、弁護士によって、こんなに違うのかということを、つくづく教えられた感じだった。どちらがよいとか悪いとかではなく、純粋にこの国の司法の、地域による違いの大きさを感じさせられたのだった。
兄が会い話した地元の弁護士には、私も一度、刑事裁判中、偶然、裁判所で会ったことがあるが、ラフな格好でわりとダンディなおじいちゃん的な印象の方だった。この方は、「勝てる裁判」ではなく、和解を兄に提案した。その背後に見え隠れしたのは、社会福祉協議会と地元弁護士会とのタイアップ関係だった。この「しがらみ」から、私たちに「和解」を選択させようとしたのではないかと、どうしても考えてしまいたくなった。
その時、兄は引き下がらず、粘り強く、父が受けた屈辱を怒りにかえて伝え、その地元弁護士にぶつけ説得した。するとその弁護士は、「是は是、非は非」と言いながら、最終的に重い腰をあげるかのように、「戦ってもいい」と答えた。しかし、この「しがらみ」が存在する限り、地元弁護士が社会福祉協議会と真剣勝負をすることは困難である、ということを、兄は肌で感じとっていたのだった。だから、その土地を離れ「しがらみ」のない東京での弁護士探しが始まった。
一方、私が紹介されたS弁護士は、すべての事情を話すと、「勝てます」と断言し、裁判としてあっさりと引き受ける姿勢を示し、スムーズな流れになった。この時、私たちは「これが通常の弁護士のあるべき姿」に思えたが、一方で、地元弁護士から聞いた「しがらみ」の実情と、それを正直に話してくれたことが、なぜか頭の中から離れなかった。
弁護士によって、正義の物差しが違うのだろうか。「社会正義の実現」とは、本当の意味で、一体なんだ――。そんなことを考えた夜だった。