松永先生が去年85歳ということになると、現在のところ私より16歳年上ということになる。昭和19年8月15日に海軍に仕官されたということだが、私はその年の7月13日、東京池袋病院で生まれ、その後、父母の郷里である徳島県池田町に疎開した。間もなく父はフィリピンに海軍施政官として赴任、終戦後捕虜となったが、文官だったので釈放され帰国後は長浜の税務署長となり、以後各地方国税局に転勤し、昭和25年の東京転勤で、家族は熊本から東京中野区に住居移転、その日以来、今日まで東京都民として、私は生きて来た。
敗戦から5年間、実は私は戦災をまぬがれた地方都市に暮らしていたので本当の焼け跡は知らない。私が来た昭和25年の東京中野区には戦争を感じさせるものはすでに無くなっていた。松永さんは「昭和22年4月に、東京の旧制の中学校へ復学」(19歳頃)したそうで、その当時は「まだ焼野原でした。ですから食糧事情も非常に悪くろくに食べるものもなかった」ということだ。昭和24年2月松永さんは東京地方裁判所の刑事部に就職したという(21歳)。そして昭和24年中央大学夜間部に入学されたということだ。私が小学校に入るのはその2年後である。
当初は司法試験を勉強しておられたが昭和36年司法書士試験合格(33歳)で司法書士になられたと松永さんは言う。その当時の司法書士試験は論文試験だったそうで、刑法の問題は「背任と横領の区別を論ぜよ」、民法は「平等相続について述べよ」、民事訴訟法は「不動産処分禁止の仮処分の効力について述べよ」という問題だった。試験の結果は良くて試験官から「司法試験に受かるから司法書士になるのはやめろ」と言われたそうだ。しかしそれを断り大森で合格後直ちに開業したという。
松永さんが大森で開業された、1961年、昭和36年という年は、松永さん33歳、私は小石川高校の2年生、16歳の時だった。1960年は安保条約反対運動が全国に広がり、翌年の昭和36年には「上を向いて歩こう」という歌が大ヒットした。その時、小沢一郎さんは小石川高校を卒業し、鳩山一郎さんは未だ入学していなかった。この16歳の時、私は山岳部に入り、北アルプスのまばゆい雪渓の上に連なる稜線をトレッキングしていた。
安保デモには私も参加した。妙な敗北感としらけムードがあとにひいた。その頃読んでいたのは、サルトルの「存在と無」とかキルケゴールの「死に至る病」とか、実存主義にはまっていたと思う。「自己とは何であるか、自己自身との関係である」というようなことをぼんやり考えていたわけだ。バナールの「歴史における科学」とか、ポアンカレーの本なども好きで、自然科学の世界には今でも興味がある。しかし当時、将来、自分が何を目的として生きて行くのか、全く思いもつかなかった。
その頃、松永さんは不動産取引の決済や、大森簡易裁判所へ提出する裁判書類の作成を今日のようなガイドブックもない中で、条文、規則を頼りに手探りで実行していたわけだ。当時、私は、法律などというものを軽蔑していたというより嫌悪していたように思う。私の父は、(ある席でたまたま香川さんに聞いたところ、父は香川さんの1年上の高文合格者だった)高等文官行政科合格の公務員であったが、戦後間もなくして、広がりつつあった、代議士及び政党と行政官との癒着に批判的で、私が役人になることを全く勧めなかった。生まれた時から日本公務員独特の閉ざされた世界の選良意識あふれる空気をたっぷり吸って育った私は、その反動で、法律という形式と、しばしば空辣でしかない観念の列挙、羅列、偽善に今でも時折吐き気を催すことがあるのである。
人間というより個人の自由は、法の支配、法律による保護がなくては確保出来ないのは自明の理であることは承知だが、しかし日本では今日でもそうであるように法は個人の自由確保の道具であるよりは、権力行使と公務員の生活確保の道具なのである。