イチエフ浪江町に行く 1
「広島に原子爆弾が出現した時、政府とそして政府の宣伝係の新聞は、新型爆弾恐るるに足らずという、あらぬことを口走っている。そしてこれを信じていた長崎の哀れな人々は、8月20日を待たずに死んで行ったではないか。・・戦争が終わったのは8月15日であった。
その朝、隣組の義勇隊長から義勇隊の訓練があるから、各家庭全員出席すべしと言って来た。・・僕は欠席します。・・あと数日数時間しかもたぬかも知れない貴重な余命を費やしたくないですから・・と答えると隊長はあきれた非国民もいるものだ、こういう非国民が隣組にいるのは心外・・といってカンカンになって帰って行った。
それと行き違いに、また隣組から、今日の昼のニュースを聞けと言って来た。畏れ多い話だが、玉音は録音の技術がわるくて、拝聴するのが困難であったが、アナウンサーのニュースを聞いているうちに、『あっ、戦争が終わったのだ!』と直感された。
・・『大変なことになりましたが、命だけは助けていただきました』と知人は言う。確かに、軍部は国民を皆殺しにしようと計画していたのだが、聖上陛下が国民の命をお救い下さったのであると私は思った。・・・・標語の好きな政府は、2、3日すると『一億総懺悔』」という標語を、発表した。・・・」(織田作之助「終戦前後」6~8P)
9月22日、私は、福島「浪江町」に近い海岸の防波堤の上に立っていた。そこからは、津波で壊滅させられたとてつもなく広い田圃が今や一面の雑草と沼地と化して、海鳥や鴨、白鷺ばかりが昼下がりの静けさを楽しんでいた。どす黒い色をした津波が次々と田圃を飲み込んでゆくテレビで繰り返し報道された現場に、今、私は立っている。放置された車や、漁船も未だにその残骸をさらしたままだ。
浪江町の周辺には要所にゲートが配置されていて、そこで私達、3.11の会の3人は、許可を得て、かろうじて「居住制限区域」に入ることが出来た。
東京のオリンピックフィーバーはいまだに消えていなかった。招致決定のあの瞬間の関係者、政治家、マスコミのフィーバーぶりには気持ちが悪くなった。冒頭で、織田作之助の「終戦前後」を長く引用したのは、浪江地区の防波堤にたち海を背に、荒廃した無人の茫漠たる空間を眺めたときに、「終戦前後」の織田作之助の、普通人の狂気狂乱とそれに対する無力と限りない馬鹿馬鹿しさに、涙さえ枯れるだろう砂漠のような彼の心境を思い出したからなのだ。