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 安倍晋三元首相の「国葬」の是非が議論になるなか、12日に営まれた葬儀に伴う半旗掲揚の問題が浮上している。川崎市教育員会は、「哀悼の意を表するため」として、全市立学校175校に、国旗の半旗掲揚を依頼。北海道の帯広市教育委員会も市内全小中学校39校に同様の要請を行っていた、というのである。

 国葬の是非には、全額国費負担という問題も絡んでいるが、両者に共通するのは、政治的中立と弔意の「強制」である。市教委からの「要請」が、実質的に「強制」の効果を果たせば、自由意思に基くべき「弔意」の意味が問われるし、そこに生まれるのは全体主義的空気でしかない。

 国葬是非問題でもいわれる通り、安倍元首相への国民の評価は分かれているし、彼が追及されるべき責任は、そのままになっていると考える国民もいる。国葬も半旗も、それが政治権力によって決定、遂行されることで、そうした国民の評価の頭越しに、それにふさわしい存在として上書きされる恐れもある。国葬や半旗、国民がこぞって弔意を示すにふさわしい人物(であった)として。

 一人間として、その死を悼むことに、もちろん問われるべきことはないし、それは自由だが、それとは別の「効果」が生まれるとなると話は別である。元首相の死によって、問われるべきことが闇に葬られることを危惧する声も、この国にはある。

 さらに半旗掲揚について問題なのは、それが教育の場で起こっていることである。子どもたちの安倍元首相への評価・イメージの形成という問題もあるが、むしろこういう形で右へならえの如く、子どもたちが弔意を強制される現場に触れること、それが当たり前のように刷り込まれることの方が恐ろしいといわなければならない。子どもたちにとっては、要請でなく、強制された経験として残る。

 一部報道では、要請を受けた学校側で「管理職が嫌々な様子ながら、掲揚した」という趣旨のことも伝えられていた(東京新聞)。これが事実とすれば、「嫌々な様子」というのは、いうまでもなく、依頼・要請が名目の強制効果の表れそのものだが、それを子どもたちが目にするとすれば、これまたそういうものとして、理解してしまうかもしれない。

 さらに、嫌な感じがするのは、コロナ禍発生以来の、この国で起きたことと、  

 今回のことが、ぴったりと重なっていることだ。つまりは、要請の強制効果。権力によって都合良く要請が強制として通用してしまう、この国の現実である。むしろ、通用すればこそ、彼らは要請を繰り出すといわなければならない。

 それは国民側の思考停止と事無かれ主義が支える、といえる。つまり、「嫌々」でも、それを受け容れることが最も面倒くさくない対応であり、人によっては「大人の対応」のこどくとらえてしまう。そこで異を唱えることを、自分の生活とは無関係な、「どちらでもいいこと」の範疇に押し込めてしまう。そして、それがこの国の多数派ならば、よりそれは抵抗のないものになるだろう。

 そういう大人たちの姿も、子どもたちは見て、当たり前のことのように受け容れ、学習してしまうかもしれない。今回の国葬も半旗も、まだ、異論が出ることは、ある意味、この国がまだ健全であることを示しているように思える。要請という名の強制を受け容れ、あるいは思考停止と事無かれ主義に陥った大人たちを、当たり前のように見てしまった子どもたちの未来が、こうした現実に今ほどの異論も出ないものになることが恐ろしい。



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