控訴審に向けて、陳述書の準備も視野にいれながら、今後の作戦を立てる日々が続いた。と、同時に、兄のいる郷里と、私のいる東京で民事裁判に精通して、信頼し、相談できる弁護人を探していてもいた。これまでの経緯から、もちろんそんな弁護士が簡単に見つかるとは、正直なところ兄も私も思っていなかったし、相当悲観的な見方をしていた。
ただ、父も老いが目立ち、自らを言葉で弁護することがしんどくなってきていたし、控訴審への不安もあり、やはり私たちのどこかに専門家に頼りたいという気持ちがあったのだと思う。
そして、それは一面、まだ私たちが巡り合っていないだけで、どこかに私たちにとって理想的な弁護士が存在するのではないか、というはかない期待感が私たちのなかにまだ、あったということかもしれなかった。最近、弁護士の数が増えたこともあり、弁護士を探している市民のなかには、まるで「青い鳥症候群」のように、どこかにいるかもしれない自分を助けてくれる弁護士を求めて漂流する市民がいると聞くが、そのタネは私たちのなかにあったのかもしれない。
弁護士探しや彼らとの関係でさんざん悩み、ついには本人訴訟を決断し、そして勝利を収めても、やはりまだどこかで弁護士に頼れないか、と考える。それもまた、素人による訴訟の現実なのか、などとも考えていた。
そんな時、兄からひょっとして頼れる弁護士が味方についてくれるかもしれない、という話がきた。兄が地元でやっていたオンブズマン活動の関係で、私たちの案件を知り、深く同情と義憤をもってくれた知人が、弁護士を紹介すると名乗り出でくれた、というのだ。
この時点で兄も面識はなかったし、その弁護士に関する情報は何もなかった。ただ、やはりその時の私は、その話だけで、「ひょっとしてそれは頼れる筋ではないか」という気持ちになったのは事実である。半信半疑ではあったけれども、まさしくそれが私たちの複雑な心理状態だった。
しかし、現実はどんどん進行していく。これも私たちが学んだ裁判というものの現実である。遂に、私たちの手元に控訴状が届けられたのだ。前記していたように覚悟はしていた。それでも、これを受け取った時、私たちは不愉快だった。一審で出た結論を拒否し、彼は再び私たちにファイティングポーズをとったのである。それは、またとても腹立たしいことであった。これは、ある意味、弁護士には分からない当事者の感情なのかもしれない。
そして、もう一つ不愉快だった正直な理由をいえば、それは一時も早く抜け出したかった裁判の世界に、また、引きずりこまれることになったことへの感情だった。