「大衆」とは、「社会の大部分をしめる、ごく普通の人々。一般の人々」(「角川必携国語辞典」)です。もとより私も、その一人です。一方、一般の人々に比べ、ある方面の、そのことを深く研究し、特別の技能を身に付けた専門家の世界があります。法律に関しても、専門家の世界があります。大衆と比べれば、法律の本質を深く研究したり、法律の知識をより深く、広く身に付けた人たちの世界、法曹界という世界です。裁判官、検察官、弁護士、法律学者の世界です。
私は、法律の本質を深く研究したり、法律の知識をより深く、広く身に付けたなどとは、到底思えないのですが、弁護士として、法曹の一人として、法律の専門家の世界を垣間見てきてはいます。ものの隙間から、ちょっとのぞき見ている程度ですが、それでも田舎弁護士として46年間、六法全書と裁判とは手を切れずに生きてきました。
そして、その大衆である私が、法曹の端くれとして、法律の専門家の世界をのぞき見て感じた印象を大衆の言葉で、大衆に分かりやすく伝えたいと思い、書いている本が、「田舎弁護士(いなべん)の大衆法律学」なのです。
「法律」は、「社会秩序を保つためにきめた、国民が守るべききまり」(前同)です。法律は、もともと大衆が日常生活を送るうえでのルールなのです。大衆は、法律というルールブックに従い、日常生活を送る、法律を実践するプレイヤーであるといえます。従って、法律は本来、大衆の中にあるものであり、大衆の中になければなりません。法律の専門家の中で、どんなに議論が深められても、それが大衆の日常生活に反映されなければ意味がありません。そうでなければ、法律を弄んでいるに過ぎないことになります。
法令自体においても、法律の専門家である裁判官、検察官、弁護士、法律学者が使う言葉の中にも、刑事においては「未必の故意」とか、「心身耗弱」とか民事においては「心裡留保」とか「表見代理」とか、大衆に分かりにくい言葉が沢山あります。大衆から乖離していると思える部分は少なくありません。
私は、田舎弁護士としての経験の中で、正確かどうかは自信がありませんが、その考え方や、その用語の多くについては、こういう意味だろうという程度の理解はしています。私が理解した範囲で、大衆に理解しやすく、噛み砕いて話すことはできます。そして、私は、私が理解したことを大衆に分かりやすく伝えてみたい、と思うようになったのです。それが、「田舎弁護士の大衆法律学」誕生の理由です。
田舎弁護士という立場で、法律の専門家の世界をのぞき見てはいますが、専門的な知識を深める研究をする能力も時間も、私にはありません。大衆として、普段の生活、つまり生計を立てる算段と、どうしたらばクライアントのニーズに寄り添えるかを模索する時間に追いまわされ、学問研究に没頭する機会は皆無に近いのです。
しかし、大衆としての日常に追われながらも、法律の専門家として大衆との橋渡しならばできるのではないか、という思いに至りました。むしろ、大衆としての生活に追われる身であればこそ、大衆と離れたところで、研究や留学に没頭できる立場より、その役に向いているのではないか、と思ったのです。居直ってみると、本気でそう思えるようになり、段々とその気になってきたのです。
一方では、田舎弁護士として、法律の専門家の世界をのぞきながら、他方では、大衆として普段の生活に追われる身という立場は、大衆に法律を教えるとか、説くなどというものではありません。一段高い教壇の上から話をするような立場ではありません。炉辺で法律を語り合うという格好です。交通の便の悪い昔、田舎から都などを観て、村に帰ってきた者が、村人に都などの様子を話しているようなものです。
大衆の中にいる私が、大衆に対して、大衆に分かりやすい言葉で、法律の専門家の世界を知ったかぶりして話したり、書いたりしているもの。それが「田舎弁護士の大衆法律学」なのです。
今回、その「田舎弁護士の大衆法律学」を、司法ウオッチからの要請で同サイト上でも、連載することとなりました。本の世界に加えて、インターネット上でも、ご興味を持って頂ける新しい読者との出会いを期待しています。よろしくお付き合い頂ければ、と存じます。
◇千田實弁護士の本
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