〈まず疑ってみるということ〉
法律が納得できないものだったら、その法律は憲法違反を疑ってみてよいと思います。行政が納得できないものだったら、行政は、法令に違反しているのではないかと疑ってみてよいと思います。その時も憲法が根本法であることを忘れずに、憲法の趣旨に反しているかどうかを疑ってみるべきです。
裁判についても同じです。裁判に納得できないときは、裁判が間違っているのではないかと疑ってみるべきです。裁判では勝ち負けの結果が出ますので、勝った方は納得するでしょうが、負けた方は納得できないことが多くなるのは当然です。
これまでの弁護士生活を通じて、判決は敗訴した方が「このような判決なら、納得できる」というものを出してほしい、といつも思っています。ですが、ほとんどの判決は、負けた方の立場など一顧だにしないものです。負けた方は納得しません。だから、一審では決まらず控訴となり、裁判は長引くのです。判決を書く裁判官は、もう少し判決を受ける人の「納得」ということを意識してほしいのです。
〈人間の心理的面から出る答え〉
「やってもダメ、やらなくてもダメという場合、どうするか?」という禅問答があります。物理的な存在である人間の肉体は、治療しても、いずれは死滅します。その意味では、治療をしてもしなくても最終結果は同じです。どんな生き方をしようと、その結果は同じです。それは人間を物理的存在としてだけ捉えているからです。ですが、心理的には違います。
62の厄年に、「人工透析しかない」と宣告されました。「もう長くは生きられない」と覚悟しました。「まだやり足りない」との思いで、やり切れない思いでした。幸い、出浦先生の食事療法と、妻からもらった腎臓で元気になりました。やりたいことをやれるようになりました。どんどんやっています。
つい先日、つまらないことで「このまま死ぬのかな」と思うことに遭遇しました。その時、「おかげ十分にやれた。このまま死んでも満足だ」と思いました。62年の厄年の時は、全く違う思いをしました。物理的存在である肉体は、いずれの場合も消滅してしまうのですから、同じですが、やったとやらないで、心理的なものが全く違うのです。貴重な体験をしました。
「やってもダメ、やらなくてもダメという場合、お前ならどうするか」と問われた修行僧が、色々勉強の成果に基づき答えたが、師から合格点をもらえず、やけくそとなり、阿波踊りの真似事をしたら、「それだ、それていい」と合格させてもらったという話をしていたのを聞いたことがあります。なぜ合格したかの理由は、「それぞれに考えてほしい」ということで言いませんでした。
阿波踊りといえば、「踊る阿呆に、見る阿呆、同じなら阿呆なら踊らにゃ損々」です。「やってもダメ、やらなくてもダメ」というのは、人間の物理的存在面を言っているのです。人間の心理的面は言っていないのです。ですから、この問題を「田舎弁護士の大衆法律学」流に噛み砕いて出せば、「やってもやらなくとも、物理的存在である人間の肉体は死滅してしまうが、人間の心理的な面においては、やった方がいいのか、やらない方がいいのか」という問題になりそうです。
これですと、「やった方がいいと思う」と多くの人は答えると思います。他人がどう答えるかは別にして、私は「やった方がいい。やりたい」と思います。やってダメなら納得できます。やりたいことをやれたら、結果はどうあれ、納得できます。人生も納得できるかどうかです。
憲法も「納得できるか、できないか」、それがキーポイントです。「納得できるか、できないか」という秤ではかればいいのだと思います。
(みのる法律事務所便り「的外」第319号から)
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