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 〈「民主主義の限界」〉

 私は、2006年11月30日に、本の森から「田舎弁護士の大衆法律学――憲法の心――改正権者のあなたに知ってほしい」(「旧・憲法の心」)を発刊しました。そこでは、「日本国憲法の心は、究極の価値を、基本的人権の尊重(個人の尊厳)と考えている」と述べました。そして、そのことを意識して、私が書く憲法の本のタイトルを「憲法の心」としたのです。

 現在も、その考えには変わりがありません。そして、基本的人権とは何かということについては、人間なら誰でも持っている「幸福な人生を全うしたいという権利」と述べましたが、この考え方も変わっていません。

 このような内容を持つ基本的人権は、憲法によって創り出されたものではないのです。憲法が制定される以前よりあるものなのです。国家が生まれる前からあるのです。人間が、この世に生まれた時からあるのです。国があろうとなかろうと、憲法があろうとなかろうと、そんなことには関係なく、人間は誰だって、幸福な人生を全うしたいのです。

 「幸福に生きたいという権利」、つまり基本的人権は、国家が、憲法が国民に与えたものではない。人間が生まれながら持っているものです。ですから、国家が、憲法が、基本的人権を奪うなどということはできないのです。ここに、憲法改正の限界があることは、明々白々です。

 前記の通り、憲法は国民が制定したものであり、その国民自らが、憲法を改正するのですから、いかなる内容の改正も、改正の手続に従えばできるという考え方もあるそうですが、私はこの考え方に反対です。

 命と幸福に生きたい権利は、王様や、天皇や、時の権力者によって与えられたものではないことは当然です。それのみに止まらないで、憲法や法律によって与えられたものでもなく、また国民の多数派から与えられたものでもないのです。現代においては、ここの部分の認識は、より大事です。つまり、今、数の横暴を阻止するためには、この根本的認識が不可欠なのです。

 国民主権だから、国民の多数決を以って、基本的人権を奪うことができるなどという考え方は間違っています。多数決で何でも決められると考えることは大きな誤解です。そのような考えは、民主主義の欠陥を増大させ、やがて民主主義を否定することになりかねないのです。

 個人の生命と基本的人権は、生まれながらにして、その個人が持っているもので、国家でも、憲法でも、国民の多数でも奪うことができないものなのです。これを「民主主義の限界」と称してもよいと思います。民主主義にも限界があるのです。数が多ければ何でもできるという考え方が誤りであることは、多言を要しません。そのような政治は大勢の愚かな人々が集まってする政治、つまり、つまり、衆愚政治となってしまいます。

 このように考えますと、数のことだけを規定している憲法96条に従って、衆議院の3分の2以上、参議院の3分の2以上の賛成と、国民の過半数の賛成があっても、基本的人権を奪うことになるような内容の憲法改正はできないことが分かります。

 憲法に優先する原理とか真理があるのです。憲法の基本原理を生み出した本(素)となる自然法とか根本法とか基本法が憲法の明文に隠れた部分にある。それを日本国憲法全文が述べているように「人類普遍の原理」と言ってもいいと思います。これに反する改正は、多数決ではできないのです。


 〈憲法以前から存在するもの〉

 前記の通り、日本国憲法前文には、国民主権、基本的人権の保障に対し、「人類普遍の原理」という言葉が使われています。憲法11条は、基本的人権を「永久の権利」と言っています。憲法97条は、「侵すことのできない永久の権利」と言っています。

 基本的人権は、日本国憲法によって創られたものではなく、「人類普遍」、つまり全ての人類に当てはまる根本となる決まりであり、「永久不変」、つまりいつの時代でも変わらない根本となる決まりにより存在するものなのです。これらは、憲法以前からあるものです。ここの部分は多数決で侵すことはできないのです。

 基本的人権は、国によって憲法によって創り出されたものではなく、つまり人によって創られたものではなく、人の手が加わらない自然のものなのです。人類がこの世に生まれた瞬間から存在する、個人の尊重、人格の尊厳、つまり基本的人権の保障は、その人が、この世に生まれた出た瞬間に自然に発生している。その考え方を自然法と表現してもいいと思います。この個人の尊重、人格の尊厳、基本的人権の保障に反するような憲法改正は、自然法に反し許されない。それらは憲法より先にあるものなのです。

 国民の権利及び義務と憲法改正の関係を語るとき、憲法第9章「憲法改正の手続」の第96条の条項だけを見て、その裏に隠れている部分を見なければ、本当に大事な部分は語れません。その部分は、憲法の明文に書かれておらず、隠れているものですから見付け難いのです。

 しかし、ここの部分は、憲法の基礎理論として、これまで多くの学者によって議論されてきました。見ようとすれば見れるのです。ここを見なければ、国民の権利及び義務と憲法改正の関係は見えてきません。

 このところは、学者が議論するところですが、一般大衆にとっては理解するのが難しいところです。私もよく勉強したという自信はありません。よく分かっているとは、決して申し上げられません。ですが、ここの部分を避けては、基本的人権と憲法改正との関係を語ることはできません。どうして憲法が基本的人権を保障しているのかについて考えることは、憲法改正を語るうえでは避けて通れないのです。

 難しい法律理論には触れませんが、引き続き国民の権利及び義務と憲法の改正に関して、私の理解できる範囲で、いくらか憲法の基礎理論を取り入れて、ほんの少しですが、憲法論らしい話に挑戦してみようと考えています。どこまでできるか分かりませんが、できるだけ分かりやすく話してみるつもりです。

 憲法の本(素)となる自然法とか根本法とか基本法というものはどういうものなのかについて、項を新たにしてみたいと思います。田舎弁護士をやらせて頂いた経験則に基づき、これまで学者間で論じられてきた憲法の基礎理論に関する考え方は、こう考えれば現実世界に当てはめ、政治の場などで役立てることができ、法律の専門家ではない一般大衆でも理解ないし納得し活用できのではないか、というものを捜してみます。

 (拙著「新・憲法の心 第25巻 国民の権利及び義務〈その2〉」から一部抜粋)


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