〈「公共の福祉」という言葉〉
日本国憲法は、基本的人権を保障していますが、「公共の福祉に反しない限り、最大の尊重を必要とする」と書いていますので、基本的人権も公共の福祉には勝てないのではないかなどとも思い、基本的人権は、究極的価値だと信じている身としては、どうしても納得できずにいました。「公共の福祉」という言葉は、不要というより、有害ではないのか、という思いさえありました。
「公共」とは、角川必携国語辞典では「国民全体」とか「社会一般」と説明しています。「福祉」とは、「幸福で安定した生活環境」と説明しています。これを合わせてみると「公共の福祉」とは、「国や社会が幸福で安定した生活環境」ということになります。
ですから、そのことは望ましいことであり、反対する考えは全くありません。しかし、そのためなら、私個人の生命、自由、幸福が犠牲になっても構わないなどとは思えません。国家、社会の前に私個人の幸福がほしいのです。公共の福祉という言葉で私の生命、自由、幸福を奪われることには、納得できません。
そんな思いがあったため、私はこれまで、「公共の福祉」という言葉が十分に理解できずにいました。ところが最近、「公共の福祉」という言葉は、このように考えればいいのではないか、という思いに至りました。田舎弁護士となって丸46年、法律の勉強を始めて50年が経ってやっと理解でき、「公共の福祉」という言葉を日本国憲法に取り入れた意味が納得でき、その存在を肯定できるようになり、嬉しくなりました。
結論から申しますと、「公共の福祉」とは、国民の心構え、つまり国民の自戒の言葉だと考えればよい、と気付きました。「自戒」とは、「自分で自分に注意して、まちがいを起こさないようにつつしむこと」と角川必携国語辞典は説明しています。そのように「自戒」という言葉を理解した上で、「公共の福祉」とは、「国民には基本的人権が強力に保障されていますが、そのような強力に保障されている基本的人権は、それを持つ国民において、自分で自分に注意してまちがいを起こさないようにつつしみ、主張・行使しなけれけばならないという国民の心構えを宣言したものである」という思いに至りました。国から国民に対しての命令ではなく、国民自身の心構えを、主権者である国民自らが、憲法に宣言したものだと考えれば、納得できます。
国民主権国家である日本においては、国民は国家機関から命令を受ける立場ではありません。国民は、国家機関に対して命じる立場です。ですが、国民は、主権者として、自らもその責任や義務を自覚しなければなりません。日本国憲法、つまり日本国民が創った憲法の第3章は「国民の権利及び義務」と明記しているのは、そのことを意識しているのです。
〈国家に侵害されない絶対的権利としての「基本的人権」〉
憲法は、国民主権主義の下において、主権者である国民から、国家機関、つまり法を創る国会、法を執行する内閣、法を解釈する裁判所に対する命令です。このような憲法は、国は、国民の基本的人権を侵してはならないと規定しています。つまり、主権者である国民は、国民のために奉仕すべき立場にある国の機関である国会・内閣・裁判所は、国民の基本的人権を、侵害してはならないと命じています。
ですから国家機関は、国民の基本的人権を侵害してはならないのです。これを侵害する結果となる法律や、行政や、裁判は、憲法違反ということになります。それは、「公共の福祉」という言葉によっても、「法律」という言葉によっても許されないのです。それが主権者であり、憲法制定権者である国民が国民のために働かなければならない国家機関に命じた命令なのです。国家機関がこの命令に反していたら、憲法違反になります。
そのことは、憲法11条では、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」と明記しています。つまり、基本的人権は、国家機関によって侵害されることは絶対にない絶対的な権利なのです。ですから、基本的人権は、「憲法の究極の価値」ということになります。
(みのる法律事務所便り「的外」第323号から)
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