いわゆる「平成の司法改革」のメニューのなかで、もっとも司法や法律になじみがない市民が真っ先に思い浮かべるのは裁判員制度だろう。「司法改革」といわれてピンとこない市民が、かろうじて結び付けてくれるものでもある。ただ、これも一般に知られていないことのように思えるが、この制度ほど専門家からみた根本問題が検討・解消されることなく、見切り発車してしまった制度もないのである。
そのことをメディアも社会も、何の問題意識もなく、また、それを共有することもなく、制度が人の命や人生を左右する裁判に、日々運用され続けてしまっているということそのものが、この国の非常に奇妙な情景を生み出しているように思えるのである。
もっとも基本的な問題として、いまだに首を傾げる専門家が少なくないのは、市民の量刑関与というテーマである。端的に言って、なぜこの制度は量刑まで参加市民に関与させる設計にしなければならなかったのか、そもそも言えば、本当に量刑判断そのものが可能なのか、という疑問だ。
量刑は、一般情状事実や刑の均衡といった、さまざまな量刑事情を考慮する必要があり、また、裁判員がこれを理論的にも情報としても取得できる環境をこの制度は担保していない。ある意味、こここそ職業裁判官こそが、その無理と危うさを認識し、さらにこの制度のあり方として異議を唱えてもおかしくないところなのである。
しかし、実は最も問題とみるべきなのは、それでもそれが導入されることになってしまった最大の要因として浮かんでくる、この制度にへばりついているものの方である。それはつまり、「市民感覚の反映」という、同制度の謳い文句であり、推進派が最上段に振り被った、最大の導入根拠のように扱った代物である。
この「市民」を最大限持ち上げた、この「メリット」を、推進派大マスコミを含め、錦旗のごとく、掲げて導入に突き進んだのが、この制度だったという経緯がある。裁判員制度と「市民感覚の反映」がもてはやされた結果、専門家ならばもっとこだわり、それをこの制度の論点として発進されてよかったテーマが、完全にスル―されてしまったという現実である。
そもそも同制度は、法曹の「職業的自覚」ということを、できるだけ後方に押しやって導入された色合いが強い。このことをいうこと自体、素人が裁く、裁けるという、同制度導入の大きな前提にかかわるということがある。制度導入ありき、の「改革」ムードの中で、「あなたにもできる」イメージが結果的に先行した嫌いがある。
「職業的自覚」があればこそ、やれることはないのか、逆にそれがなくても、つまり抽選で選ばれた素人としての自覚だけでも大丈夫なのか――。そのことが正面から問われていない。そのことが結局、「裁く」という立場になることへの厳しい自覚を制度導入に際して問わず、死刑量刑への精神的過酷さ、さらには裁判員PTSD問題にもつながっているようにとれる。
いまだに国民の中にある制度への敬遠意識について、ある皮肉めいたことを言う人がいた。「敬遠している人ほど、裁判というものを厳しいものと受け止めている可能性はないか」。参加することが面倒くさいという人も少なからずいるだろうが、自分にやれる自信がない、あるいは人の人生を左右する判断を背負い続けること自体に自信がない、という人も含まれているはずだ、と。
プロとしての「職業的自覚」があってこそ、乗り越え、背負い続けられることがあるのではないか。最近、裁判員が露骨に黙秘に嫌悪感を示した事例に驚き、呆れる弁護士プログが目にとまった。基本的な知識の問題があるうえに、その欠落を問題視する「職業的自覚」もまた、裁判員には求められない現実をみる。
量刑判断に市民感覚はなじまない、ということをプロの見解として、この制度にぶつけられることなく、導入された、この制度の歪みと、「市民感覚の反映」を礼賛し、制度の旗を振る側に回った専門家の、もはや残念な「職業的自覚」を思ってしまう。