〈戦争防止のための2つの柱〉
戦争を防止する方法には、2つの柱がありそうです。1つ目の柱は、「戦争を防止する外的な枠組を整える」ということ。2つ目の柱は、「戦争を防止する人間の心のあり方を整える」ということです。1本目は「戦争を防止するしくみ」、2本目は「戦争を防止する心」てす。
1つ目の柱について、これまで戦争を防止しようという目的で国際社会が考え出した外的なしくみとしては、「国際連盟」と「国際連合」(以下「国連」)があります。国際連盟は、戦争防止のしくみとしては役目を果たせず、第2次世界大戦を経て消滅しました。第2次世界大戦終結とほぼ同時に生まれた国連は、未だ戦争防止の目的を完全には果たし切れていないというのが実情です。
アルバート・アインシュタイン(1879-1955)もジグムント・フロイト(1856-1939)も述べていますが、「国連の裁定を押し通すのに必要な力」、つまり「戦争を防止するのに必要な力」がないからです。
国際連盟に戦争を防止する力がなく、第二次世界大戦が勃発したことは明白です。国連の戦争防止機関である国連安全保障理事会も、戦争を防止するのに必要な力、すなわち国連軍を持っていないので、今までのところ国連が戦争防止の外的な枠組としての役目を十分に果たすまでには至っていません。「多国籍軍」と呼ばれる複数の国の軍隊が、その役目を代わってやっていることがありますが、国連軍とは言えません。
戦争防止の外的な枠組みは、各国の武力を国連に集め、国連軍をつくり、武力の行使は世界警察とも言うべき国連軍だけが行使できるしくみができなければ完成しません。
集団的自衛権の行使は、国連軍ができるまでの過渡的な措置だと考える方もいるようですが、国連軍と集団的自衛権は全く別物です。国連軍は地球上唯一の軍事力であるのに対し、集団的自衛権は、対立する一方のグループの戦力に過ぎないのです。対立する他のグループにも戦力があるのです。両グループ間で戦争をすれば、国と国との戦争より規模は拡大するのです。第三次世界大戦となりかねないのです。集団的自衛権には、そのような危険があることを知らなければなりません。
〈心のあり方まで踏み込んだ日本国憲法9条の価値〉
日本国憲法9条は、国として「戦争放棄」と「戦力の不保持」を宣言しました。戦争防止の外的な枠組は、各国が「戦争放棄」と「戦力の不保持」を宣言し、「国連軍」という「国連警察」「世界警察」というか、呼び方はともかく、「武力」を国連だけに集中させなければ、戦争防止の外的な枠組は実効性のあるものにはなりません。
日本国憲法は、世界に先駆け、国として、戦争防止の外的な枠組を整えるための第1歩を踏み出したのです。戦争を防止する方法の1つ目の柱である外的な枠組を整えるという意味でも、日本国憲法9条は人類史上初めて憲法に「戦争放棄」「戦力不保持」という具体的な方策を採り入れた画期的なものであり、世界初の試金石とでも言うべきものです。その意味でも、世界史的価値を有するものだと確信します。9条が世界に広まるかどうかが、まさに世界平和が実現するかどうかの分かれ目となるものと確信します。
憲法9条は、戦争を防止する方法の1つ目の柱である外的な枠組を整える第1歩を国家として踏み出すという、世界初の快挙を成し遂げたというだけではなく、戦争を防止する方法の2つ目の柱である人間の心のあり方を整える、つまり、ものの考え方、哲学の面においても、「戦争放棄」という国家レベルでは、人類史上初めての試みをなしたものであり、その意味でも真に世界史的価値を有するものであると確信します。
私は、ここにこそ9条の真の価値があると思えてならないのです。「戦争放棄」と「戦力の不保持」という国家レベルでの考え方は、有史以来の最大の哲学的変革だと確信します。これまでの哲学では考えられなかったことを、日本国憲法に取り入れたのです。特にそのことを強調したいのです。
2500年昔、既に、人間の生き方について深い思考に到達した釈迦、孔子、ソクラテスでさえ、そこまでは考えが及ばなかったのではないかと思える「戦争放棄」、「戦力の不保持」を掲げた憲法9条の哲学は、2500年前から進化が止まっていたとさえ思える。人間の生き方に対する考え方、つまり哲学というか、心のあり方からようやく脱皮したという印象を受けます。
憲法9条の「戦争放棄」、「戦力の不保持」の規定は、そのような哲学的視点においても極めて高い評価を受ける価値があるものです。憲法9条は、戦争防止の外的な枠組を整える意味でも、戦争防止の哲学的裏付け、つまり人間の心のあり方を整えるという意味でも、画期的なのだと確信します。
釈迦も孔子もソクラテスも、「争いは動物の本能から発生するもので、回避できない」と考えていたのだと思います。それを前提として、彼らの哲学は成り立っていたのだと思います。
争いが回避できないものだとすれば、自己防衛手段は必要であり、人間の知恵があるからそのための武器を発明し、武力を増強し、戦争で自分や自国を防衛するのは当然である、という哲学だったのです。この考え方は、長い間変わらなかったのです。現在でも、この考え方は多数説だと思います。
アインシュタインもフロイトも、その点においては同じだと思います。アインシュタインとフロイトの往復書簡の中にも、「戦争放棄」、「戦力の不保持」までは出ていません。彼らの手紙の中には、そのような思想の芽生えを感じさせる部分がありますが、そこまでは言い切っていません。
日本国憲法9条は、そこまで踏み込んだのです。その意味で、釈迦も孔子もソクラテスも、さらにはアインシュタインとフロイトも超えたものだと確信します。それは、日本国憲法前文が「再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」と明言している通り、かつてなかったレベルの第二次世界大戦の惨禍に対する反省から生まれたものです。ですから、これは第二次世界大戦後の哲学なのです。
(拙著「新・憲法の心 第21巻 戦争の放棄〈その21〉」から一部抜粋 )
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