森友学園問題めぐる財務省の決裁文書改ざんを苦に自殺した近畿財務局元職員の妻が、財務省調査報告書関連文書を不開示とした、財務省側の決定の取り消しを求める訴訟を大阪地裁に提起したと報道された。いまだに「特定事件の捜査機関の活動は明らかにできない」などという主張を同省側は不開示の理由としているし、岸田首相も今のところ、真相解明に積極的ではない。
しかも、衆院選挙の時期にありながら、選挙ではこの問題が争点にもならないし、そのことを問題視するムードが社会に充満しているとも言い難い。そもそもそういうムードでないからこそ、票につながるものとしては争点としての優先順位が下げられている、というのが結果だろう。
しかし、私たちはこの異常さを改めてかみしめるべきではないだろうか。いうまでもなく、公文書改ざんは、民主主義国家にとって、落ちるところまで落ちたといってもいい、重大で深刻な事態である。改めて公文書は「国民の財産」と言われているが、これは国家権力を検証する途を奪われる。それを改ざんしたり、隠ぺいするのは、国民と民主主義への違背、裏切りである。
別の言い方をすれば、これが可能であるということが、決定的に民主主義国家にとってアウトなのである。それでもこの国では、これを出した最高責任者は辞任しないばかりか、直接の関係者も責任が逃れられる。今も誠実に対応しなくても、政権がもたないわけでもなく、選挙への影響が懸念されるテーマにもならない。
変な言い方になるが、日本はいつのまにか権力が堂々とうやむやにできる国になっているのである。
ただ、言うまでもなく、これは権力側の姿勢が映し出している、私たち国民の実相の問題でもある。それを追及しない政治家を送り出しているという意味においても、また、これを追及しないことは許されないこととして、選挙の審判にかかわって来るという緊張感を彼らに与えていないという点においてである。
「選挙になれば、国民は忘れてくれる」という永田町発とされる、とんでもない国民に対する侮蔑の言葉を私たちは知っているし、残念ながら、それが言い当てている現実も思い当ってしまう。昨日今日ではなく、とっくの昔に彼らを油断させ、侮らせ、暴挙を可能にする環境を、私たちは彼らに許してしまっていたように思えてしまう。
私たちの無関心、それを生み出している麻痺。それはあくまで優先順位の問題として説明する人もいるが、あくまで麻痺した感覚の価値基準に基づいているものだ。めぐりめぐってこの社会がどう歪み、それがどう決定的に跳ね返って来るか。それを考える余地が、私たちのなかに既にないならば、これほど恐ろしいことはない。おそらく気がついたときには、どうすることもできない。
冒頭の記事を、大変なことに巻き込まれた元職員と妻の問題として読んでいる人は多いのかもしれない。しかし、それは断じて違う。これは私たち国民を真の当事者とする訴訟とみるべきなのである。そして、この妻の勇気と決断がなければ、今、この問題を社会が改めて目にしていたかどうかも分からない、そういう私たち社会と私たちの問題なのである。
選挙ですべて問うことはできない。経済が優先、コロナが優先ということに多くの人は納得するのかもしれない。しかし、このままいけば、一面、この深刻な事態を生み出した側の人間たちは、胸をなでおろすかもしれない。「やっぱり私たちが想定した通りの国民だった」と。
彼らの緊張感を取り戻すために、私たちがまず、厳しい目を取り戻す必要がある。