とにもかくにも、私たちの刑事、民事までの裁判による闘いは終結した。またその後に、この問題の根底に流れていた町社協体質をめぐる町議会の追求も幕を閉じた。その間、2年くらいだろうか。闘いからの解放で、私たち家族の、気持ちも穏やかになり、はじめて心から安堵したことを記憶する。
私は、やはりこの件で気が張り詰めていたのか、日々、いわば司法付けのようになっていた頃からすると、しみじみこの平穏な生活に感謝をすることがあった。しかし、同時に、緊張の糸が取れたのか、行き場を失った切れた凧みたいな、不思議な気分に襲われる自分もいた。
司法まして本人訴訟というものに、かかわらざるを得なくなった市民にとって、それがどれだけ精神的にも非日常的な負担であるか、ということを改めて感じさせるものだったといえる。
あるいは司法関係者は、本人訴訟はあくまで当事者が、自分の意思で選択したものである、というかもしれない。つまり、最後まで弁護士に寄り添ってもらうのが正解である、精神的負担も自主的に選んだ自業自得であるという文脈で。
しかし、それ自体は正しい指摘であったとしても、私たちの経験は、やむにやまれず、向かった本人訴訟であり、この連載では、そういう事情を抱えざるを得なくなる市民もいることを伝えたいという思いもあったのである。
その一方で、様々なことを振り返ることが今もある。果たして、私たちは本当に納得のいく結果にたどりつけたのだろうか。高裁で和解という選択は正しかったのか。最高裁まで争っていたら、どのような「判決」になっただろうか。 幻となった司法の判断=判決文を何度も想像してしまう。
専門家にいわせれば、この結果に対して、妥当だとか妥当でないとかいろいろな見方があるのかもしれないが、私たちの心の片隅には、ある種のシコリとなって残っているようにも感じる。「たら、れば」は存在しない、と分かっていても。
一般市民にとって、司法とかかわりはつらい、はやく非日常を終わらせたい、その思い強いほど、妥協すべきでなかったはずのものを、妥協に導かせたのではないか、という現実にまで、思いがいってしまう。
また、別のことが頭を過ることもある。真逆のことも考えることもあった。失った時間やカネのことである。もし、この厄災に私たちが巻き込まれず、その期間、そのカネを、別のこと、自分たちのことに活かしていたら、どんな出会いや経験、挑戦が生まれていただろうか、と。そんなことを空想してしまうと、渋い表情した自分が顔を出してしまう。
もっとも、マイナスな気持ちばかりではない。司法という普通の市民にとって、未知の域に、足を踏み入れたからこそ、得たものも数多くあったようには思う。本人訴訟に挑戦したがゆえに、自分の限界を超え、さらに、持ちえなかった能力を引き出されたことはまぎれもない事実だ。また、絶対にこのことがなければなかったはずの、多くの人との出会い、支援して下さった多くの気持ちとの出会いもあった。
そして、この闘いは、私の人生における主観や視点を変えることに繋がったことも感じる。それは、今、目の前に起きている社会情勢を自分たちが生活している日常と、照らし合わせて、社会の認識との根本的なズレを感じることであった。これも、自分の成長を意味するものなのかもしれないと思っている。