司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 裁判員裁判での証拠写真をみせられた、強盗殺人事件審理担当の裁判員の女性が、急性ストレス障害と診断された事件(国賠訴訟が福島地裁係属中)を契機に、裁判員への「配慮」の必要性という、とらえ方が、あちらこちらで聞かれるようになっている。既に、最高裁は4月、裁判員の精神的負担軽減を目的として、カラーの遺体写真などを白黒などに改める事例報告書の参照、全国地裁に通知しており、各地の地裁でもそうした方向での運用が進められていることが伝えられている。

 

 しかし、そうしたなか、殺人・死体遺棄事件を審理にあたり、遺体写真ではなく、イラストが証拠採用された熊本地裁の裁判員裁判に、被害者参加制度を利用して参加した、被害者男性の母親が、こう意見陳述したことが報じられている。

 

 「残念で仕方ない。写真を見てもらい、どういう思いで殺されたのかということを分かってもらいたかった」(毎日新聞 12月11日(水)9時30分配信)

 

 そもそも、刑事裁判で証拠をそのまま見て審理するのは、当然で、写真の加工やイラスト化は、残虐性などその判断での重要な要素の減殺につながるという指摘は専門家のなかにもある。それは、裁判に決定的な影響を及ぼす証拠の価値を歪めてまで、裁判員裁判を維持しようとする推進派の姿勢への疑問にもつながる。そして、そのことが筋違いであるという感覚は、実は大衆の裁判に対するとらえ方にも存在している。

 

 市民の常識・感覚を裁判に反映させるという裁判員制度にあって、この被害者の母親の声は、市民の常識でも感覚でもない、という扱いになるのだろうか。ここに、この制度の根本的な無理とご都合主義が見てとれる。裁判員裁判にどうしても市民を引っ張り出したいあまり、というか、肝心の証拠の価値までゆがめるという、おかしさ。訓練もなければ、職業的自覚もない市民に、裁きを強制させる制度の無理をごまかすために、肝心の証拠を犠牲にするという現実である。

 

 実は、前記福島地裁係属国賠の原告の被害者も、裁判員への前記したような当局の然るべき「配慮」を求めて提訴しているわけではなく、訴えたいのはあくまでこの制度の無理だ。本来、裁く立場に立つ者は、すべての証拠と正対し、冷静に判断する能力を持ち、そのようなことに耐えられるように訓練を受けた者であるべき、という見方が基本にある。

 

 これは、当局を含めて、この制度推進・定着化を目指している側にとっては、非常に都合の悪いテーマといえる。なぜならば、前記国賠原告の見方も、意見陳述をした母親の言葉も、市民には「当然」と言いたくなるほど理解しやすい話だからだ。そして、少なくとも、裁判の帰趨に影響することに手をつけてでも、市民の司法参加強制を維持しなければならない、というコンセンサスは、大衆のなかに存在しているとはいえない。

 

 それだけに、どうしても制度を維持しようと思えば、あたかも証拠の加工が裁判の帰趨に影響しないかのような姿勢をとるとともに、裁判員への「配慮」の姿勢を強調するしかない。つまり、「配慮」の強調は、この制度に関する根本的な議論のすげ替えであり、極力国民の目線をそちらに向けさせるための、めくらましといっていいものなのである。

 

 「裁き」を強制させられている裁判員・市民にとっては、前記したような被害が現実化している以上、実害を防止するために「配慮」を必要とするという見方も当然あるだろうが、制度を強制されている側の弱みにつけこんだ、本質的論議の回避策といわざるを得ない。むしろ、この国の市民の常識で、この制度の根本的な矛盾と問題性が明らかにされるべきときだ。



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