司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 
 〈根本的制度批判に繋がらない要因〉

 

 裁判員制度については国民の司法参加という一見体裁の良い表現が用いられてはいるけれども、所詮はくじで集められた、どんな正体の者かは分からない人々の参入であり、それらが、訓練されたプロ集団と対等に議論し結論を導くことのできる者でないことは容易に分かることであろう。おまけに、評議は絶対秘密とされていて、裁判官や裁判員の発言は藪の中である。

 

 つまり、裁判員参加によって従来の官僚裁判官による裁判が変わることはなく、仮に素人の意見を尊重して一審がおかしい判決をすれば、控訴審・上告審はこれを破棄することができる。現に、昨年11月、東京高裁は、オーム関連事件で一審東京地裁裁判員裁判が下した懲役5年の判決を破棄し無罪を言い渡した。当時のある新聞には、担当した元裁判員の感想として「無罪と聞いてショック。……私たちが約2か月間、一生懸命考え出した結論。それを覆され、無力感を覚える」と話したことを報じていた。

 

 裁判員制度制定時、上訴制度には手をつけられなかった以上、この東京高裁のとった態度には何ら問題はないけれども、その態度が、それでは一審の裁判員裁判はどのような意義、効果があったのか、裁判員の役割は何であったのかという根本的疑問を投げかけたことは間違いない。

 

 求刑1.5倍判決に対する最高裁の示した判断(拙稿「司法ウォッチ2014年10月16日~同年12月29日」)、一審死刑判決を高裁が破棄し無期懲役を言い渡した事件で最高裁がその高裁判決を支持した判断(2015年2月)についても同様のことが言える。

 

 マスメディアも国会議員も、一般国民も、「国民の司法参加」という言葉を聞いただけでまるで魔法にかけられたかのように、民主的な裁判になる、それは民主国家にとっては良いことである、先進国では当然のごとく実施されているから我が国でも採用して当たり前、という思いになってしまう。そして、その思いが、制度への根本的批判に中々繋がらない一つの要因になっているのではないかとも考えられる。

 

 

 〈制度への思い込みを捨てることが必要〉

 

 しかし、その素人参加が元々民主化と言えるのかどうかが甚だ疑問であるばかりではなく(拙稿「裁判員制度は国民主権の実質化か?裁判員の民主的正統性について」司法ウォッチ2014年8月1日~同年10月1日参照)、仮に民主化と評し得るものとしても、「司法までが民主化されないところに合理的な民主主義の運用がある」「民主主義において、立法や行政が政党化し、階級化することは自然であるとしても、司法までがそうなることは、その使命から見て致命的である」(兼子一「裁判法」p20)という言葉は十分に傾聴さるべきであろう。「一般にはむしろ司法は政治部内の組織原理である民主主義によって支配さるべきではない」(今関源成「参加型司法」法律時報臨時増刊p180)も同様の考えと解される。

 

 それ故に、まず国民は、素人が裁判に参加すれば裁判は民主的になるとか、それは好ましいものという思い込みを捨て去る必要がある。しかし、そのような転換は極めて困難であろう。人間は一度良いと頭にすり込んだことについてはこれを覆すことはしたがらない。面子にかけてもこれを守り抜くという本性を有しているからである。

 

 前述の小長谷教授の指摘や、ジョーンズ氏の「仮に『司法に国民を参加させなければならない』というアイデアそのものが初期段階において裁判所等に押し付けられたとしても、不利な展開を有利に転じていくことがプロの法律家の腕の見せ所である……そしてでき上がった裁判員制度は……裁判官たちにとってかなり有利なものである」となれば、この倒産寸前、仮に民間企業が運営する制度であれば初めから成り立たず、運営を始めれば倒産間違いなしの代物であっても、今もなお生き続けている理由が分かるというものである。



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