思い立ったら吉日。私たちの事件が高裁に持ち込まれるタイムリミットは差し迫っていたため、兄は直ちに「控訴阻止」へ動いた。社協が「犯人」と接触を図る前に、阻止せねばという気持ちから、兄は車を険しい山道をくねくねと登りながら、「犯人」宅のある村へとクルマを飛ばした。
兄はまず、この民事裁判で「犯人」にお金をかした親戚の家へ行き、現状把握のための情報を収集し、それから「犯人」の母親への所へ話し合いに行った。当初、母親は、兄をみたとき、兄が何をしにここに来たのか、つかめない様子で、驚きの表情を隠せなかったという。単身、原告側の兄が乗り込んでくるとは思っていなかったのだろう。
その母親から出た言葉は、なんと「お金は払いたくない」だった。その答えから、兄は「この人は裁判というものを理解していたのだろうか」という率直な疑問を持ったという。そもそも刑事裁判で娘が何を問われ、そして、今、民事裁判でどうして問われているのか。娘の犯したことを基本的に理解しているのか、ということも疑問だった。こういう人間を相手に行われる裁判というものの大変さを改めて感じた。
兄は、その母親に娘が犯した罪、民事裁判一審の判決、そして窃盗額が実質700万円強であることを踏まえ、話した。そしてさらに、兄は、「多額な弁護書費用を積んで負けると分かっている裁判をやるのか」と問うた。母親はいかにも渋々ではあったが、やっと現実理解し、「控訴はしない」と兄に約束をしたという。
兄からその話を聞いた私は、内心ほっと胸をなでおろした。それは、父親のことである。今後、高裁を見据え、長期決戦になり、弁護士なしで再び裁判に挑んだ場合、おそらく高齢である父親の体がもたないと感じていたからだった。万が一にも、父親の出廷を想定すると、それはどう考えても老人には厳しい現実であるように思えたのだ。それらを考慮すると、その時私は既に、何が何でも控訴を阻止したいという気持ちになっていたのだった。
最後に、犯人の母親は、真剣なまなざしで、兄にこう述べたという。
「社協がわれわれ親子を訴えたら、助けてくれる?」
こちらとしては、想定外の言葉だった。社協には雇用責任があり、監督責任も問われているから、お互いしっかり話あったほうがいいとだけいって話、兄は家に帰ったという。今振り返ると、犯人の母親は、町長個人の存在におびえていたのかもしれない。
とにかく、その時の私は、「犯人」親子が控訴しないことに望みをつなげたい思いでいっぱいだった。