〈論説①の意見について~抽象的、憲法裁判所的法令審査の容認を「示唆」か〉
柳瀬氏は「裁判所が当事者の主張に基づかずに職権で法令等の憲法適合性を審査できること」あるいは「裁判所の憲法適合性の審査は当事者の主張する範囲に限定されず、当事者の主張していない憲法上の争点についても裁判所が職権で判断を行いうること」を「示唆」しているという。裁判所法10条2号は、前述のとおり「憲法に適合しないとき」と明確に限定しているのに、当事者の主張していない争点についても(合憲判断を含めて)職権で判断を行いうることが「示唆」されるとは、感想としても正確でないことは明らかである。
同氏は、かかる憲法問題について、「解される」と言わずに何故に「示唆」されるなどという曖昧な表現を用いたのであろうか。同氏が引用する裁判所法逐条解説(上)p89の記載は、小法廷で裁判することのできない場合として「当事者の主張をまたないで『法律、命令、規則又は処分が憲法に適合しないとき』の説明中で用いられている記述である。事案の解決には不必要でも合憲判断を含む憲法判断をなし得るなどとはどこにも記していない。
その点に関連して、同氏は、また安念潤司教授のつぎの記述を引用し、その「記述が明快である」として紹介している。それは、「訴訟法的には、ある法令が違憲であるという主張は法律上の主張であって、しかも法適用上の意見の表明にすぎないから、それに格別の制限があるわけではないが、裁判所を拘束する意味もなく、裁判所の専権に属する法の解釈と適用に関する一資料であるに止まる。したがって裁判所は、それを全面的に採用することも、全面的に無視することも、ともに可能であり、また、問題となっている法令が違憲であると考えるならば当事者の主張がなくても違憲の判断をすることが、権限であれば義務でもある」(安念「憲法訴訟論とは何であったか、これから何であり得るか」論究ジュリスト1号p132)というものである。
この記述が、柳瀬氏が主張するような抽象的、憲法裁判所的法令審査の容認を「示唆」する明確な記述と、どうして解されるのであろうか。安念氏の上記記述は、「訴訟法上の当事者の法律上の主張は、いかなるものであっても、裁判所は元来法令の解釈権をもっている(「汝事実を語れ我法を語らん」という法諺もある)、しかし違憲判断が必要なときは断固として判断しなければいけませんよ」と言っているに過ぎないのであって、柳瀬氏の意見に沿うようなことを言っているのではなく、極く当り前のことを述べているだけである。
柳瀬氏は大法廷判決擁護の意欲が強すぎ、その論文の趣旨を誤って解してしまっているのではなかろうか。
因みに安念氏は、夙に裁判員制度の根幹に関わる、裁判員の参加義務を定め被告人の制度選択権を否定する制度設計を強く非難し、裁判員制度は法科大学院制度とともに「反自由主義のモニュメントとなろう」(「自由主義者の遺言――司法制度改革という名の反自由主義」憲法論集1、樋口陽一先生古稀記念p386)と裁判員制度反対の立場を鮮明にしている、裁判員制度を何とか合憲化しようとする柳瀬氏とは全く立場が異なる学者であることを付記する。