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 〈裁判員制度と上訴審〉


 裁判員裁判の判決が上訴審により破棄されることは、三審制をとっている司法制度のもとでは当然のことである(私は以前「裁判員裁判控訴審の事実審査について」(拙著「裁判員制度廃止論」P151以下)において、裁判員制度導入によって上訴審審理に影響を及ぼすことの問題性について説いた)。

 前記新聞の「主張」にある「裁判員制度導入の背景には従来の量刑傾向と国民の常識に乖離があるとの反省があったはずである」との記載は、全くの思い込みに過ぎない。制度立案、制定の過程でそのような反省があったということはついぞ聞いたことがない。

 司法審委員の井上正仁氏は「現在の職業裁判官による裁判が……全体として良質な裁判を行ってきている」と評し、裁判員制度・刑事検討会メンバーだった池田修氏も「いろんな見方を反映させることによって裁判がよりよいものになる」と述べているに過ぎないのであって(前掲「裁判員制度廃止論」p85)、職業裁判官の量刑感覚が国民の常識からかけ離れていることの反省があったなどとは述べていない。

 高裁や最高裁が裁判員裁判判決を覆すことによって制度の意義が失われるという主張は、突き詰めれば、裁判員制度維持のためには一審の量刑は変えてはいけないということに通じるであろう。あまりに偏った意見としか解し得ない。


 〈司法制度と民意〉

 問題は、刑事裁判に、そもそも、曖昧な内容の「国民」なるものの感覚、民意、常識と称するものを反映させることは司法制度として許されるのか、また、くじで選ばれた「国民」は健全な常識の保有者と言えるのかということではあるまいか。ひいては、憲法は大法廷判決が述べるような裁判への素人参加を容認していると言えるのかということである。私は先にその点について、裁判への素人参加を憲法は容認していない旨述べた(拙著「裁判員制度はなぜ続く」P135)ので、その点について広く意見を聞かせて頂きたいと思っている。

 憲法76条3項は、裁判を担当する者に求められる心構えと、全ての裁判官は憲法及び法律のみに拘束されるべきであることを定める。つまり、国民感覚、民意、常識などと言う、もともと曖昧なものによって裁いてはならないということである。仮に国民感覚、民意、常識に従うべきというのならば、それは正に国会が制定した法律であり、その解釈として裁判官が当該事件に適用されるべき具体的法と解したものである。

 最高裁が、司法審の審議の過程で最高裁裁判官の大方の意見として、裁判員裁判について憲法違反の疑いがあると表明したことは、この憲法76条3項の規定も念頭に置いたものではないかと思われる。



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