今、巷ではSNS対メディアの話で溢れている。既存の大手メディアを指す「オールドメディア」といった、これまであまり見かけなかった表現も一般化しつつある。先の衆院選、兵庫県知事選の結果を経て、大方の話題の傾向は、そのオールドメディアが、SNSに敗北した。要は、大衆が半ばオールドメディアを見限り、SNSの情報の方を信用し始めている、という傾向をいうものだ。「オールド」はメディアの中での位置付けにもとれるが、もはや既に取って代わられてしまう古いもののような、イメージもはらんでいる。
根底には、メディア側に責任があるようにとれる。大衆のメディアに対する大きな不信感。インターネットという情報源を手にした大衆は、メディアによるニュースの取捨や取り上げ方のアンフェアを、そこから見分けられると気付き始めた。「偏向報道」という言い方も一般的になり、同時にそれは不公正な「忖度」への疑念を生む。
ここでも何度か指摘してきたが、新型コロナワクチン接種、ウクライナ戦争をめぐっても、アンフェアで大衆の疑問に向き合わない報道は現に存在してきた。ネットでも既に一部規制されているプラットホームでは、発信者側が巧みにそれをかいくぐり、大衆に「真実」を伝えようとする姿が見られている。むしろ、「真実」に大衆が近付くには、既存メディアだけ頼ってはダメ、SNSをはじめネット空間から情報を得なければならない、という大衆の意識も、社会のムードも徐々に醸成されてきていることは間違いない。
少し前まで、既存メディア側は、氾濫するネット情報の無責任さを言う主張で勝負し、半ばそれで優位に立ってきたように見えていた。匿名性への不安を煽り、玉石混交の当てにならない情報群と、権威と責任を背負ったメディアの信頼度で、大衆の信頼を圧倒に勝ち得るという風でもあった。しかし、ある意味、それは想像以上のもろさをみせた。そのメディアのプライドを打ち砕き、打ち負かすほどの大衆の不信感が生まれている、ととることもできる。
大衆がSNSなどネット情報によって、よりフェアな事実にアクセスしようとすることも、それによってメディア情報を鵜呑みにせず、より厳しい目線を向けることは、同時にこの国の社会事象に対しても、よりフェアで厳しい目線を向けることにつながる可能性を考えれば、それ自体、民主主義社会の住人の姿勢として健全なもの、といえるかもしれない。
既に、ネットではこれまでの経緯から、SNS側の「完全勝利」、「オールドメディアの時代は終った」というニュアンスの言説も見受けられる。しかし、事態はそう単純ではない。大衆と社会が置かれている、危うさは消えていない、ともいえるからだ。
メディア側が指摘してきたネットの無責任さ、情報の不正確性、玉石混交の状態が、大きく変わったわけではない。メディアへの不信感で、今、大衆の依存意識の振り子は、大きくネット側に触れている状態だが、そこでも大衆が同じような厳しい目線で情報を取捨できなければ、同じことだからだ。
有り体に言えば、片やメディアによって取捨され、時に偏向していることが疑わしい情報群、片や恣意的な規制にとらわれない、さまざまな情報にアクセスできるが、フェイクも含む玉石混交の情報群。いずれにしても、大衆がそこから適正に取捨・判断できるかにかかっている。
専門家は最近、こうした状況で、大衆に求められるものとして「リテラシー」という言葉を使う。しかし、必要なものが「能力」ということだけであるならば、現実的には「簡単なことではない」か、「それがあれば苦労しない」という話で終わってしまうかもしれない。メディアリテラシーの必要性に対する大衆の意識・覚悟も、それをいかに大衆に醸成するのかという道筋も、全く今のわが国には、見えていないからである。
「オールドメディア」しかなく、そこで育った「オールド」世代の発想からすれば、「批判的精神」「批判的視点」ということに解を見つけたくなる。常に疑い、批判的視点でみて、自身に問いかけたうえで、選択する。是々非々で臨み、過去の信用性にも安住しない。疑い続ける、油断しない姿勢――。
しかし、専門家の中には、やや異論もあるようだ。最近、「ネガティブ・リテラシー」を推奨している佐藤卓己・上智大学教授が、「オールドメディア」の代表格といってもいい、朝日新聞のオピニオン面(11月27日付朝刊)で次のように語っている。
「私自身、ネット動画がどこまで選挙に影響しているかについて懐疑的で、まだ断定でせきないと思います。ただ問題は、その瞬間に目に入ってくる動画に対し、批判的に考えることは難しいということです」
「メディアを批判的に読み解くメディアリテラシーは重要ですが、日常的なくつろぎの時間にユーチューブを『批判的にみよう』というのは現実的ではない。できもしない規範を理想化すれば、失望だけが残ります」
「フェイクニュースがあふれる『ポスト真実』の空間で、ネット動画やSNSの情報にどう対処するのか。そこではメディアリテラシーよりも、善悪や優劣を即座に判断せず、あいまいなまま留め置き、不確実性に耐える力、『ネガティブ・リテラシー』が必要ではないかと私は思っています」
彼の考えは、大衆にとっては、より現実的で、より可能性がある考え方ということになるのだろうか。いずれにしても「オールドメディア」への「勝利」、「新時代の到来」などと浮かれてはいられない、重たい自覚と覚悟を、大衆は求められ、背負っていかなければならないことは間違いない。