模擬の裁判員裁判は何度か見せてもらったことがあるが、先日、初めて、実際の裁判員裁判に関わることになった。と言っても、弁護人ではなく、被害者参加代理人としての関与だ。当事者というより、お客さんとして扱われているという感じは終始つきまとっていたが、それでも裁判員の雰囲気はよく分かった気がする。
端的に言わせてもらうと、裁判員裁判は、裁判というより、セレモニーだという印象を強くした。裁判官と検察官、弁護人は、公判前整理をやっているのでそんな感覚はないのだろうが、公判だけを見ている身としては、実に形式的な、儀式に付き合っているという思いが強かった。
今後、この制度と付き合っていくには、裁判なんて所詮こんなもの、という割り切りができないと、弁護士としてはきついのではないか。儀式の中で、いかにハッタリを効かせ、裁判員の注意を引きつけるか。そういうことが、刑事裁判の本質となっていくのだろうか。欧米の弁護士たちは、ずっとそんなことをしてきたのだろうか。
他方で、それではこれまでの裁判は、それほど立派なものだったのかというと、とてもそんなことは言えない。何年も公判を続けた挙げ句、木で鼻をくくったような有罪判決に脱力した経験は、多くの弁護士が共有しているだろう。あの不毛な世界に後戻りすることは、やはりぞっとしない。
結局、刑事裁判として何がベストなのか、明確な答えはないのかもしれない。そうだとすれば、今あるフィールドでできる限りのことをするしかないのだろう。
それにしても、どうしても、芝居がかった印象を拭うことはできない。旧世代の弁護士にとっては、理屈の問題というより、感覚的なもので、どうにも越えがたいハードルがあるようだ。