争点準備室を沈黙が支配した。膠着状態だった。この澱んだ空気をなんとかしないといけないと、そう思っていた矢先、裁判官から、驚きの発言が出た。
「みんな出てもらえませんか」
椅子にふんぞり返ったままで、彼はこう切り出したのだ。その様子は、とても横柄に見えたことを記憶している。ほんの少しの間だが、室内がざわついた。私は一瞬、耳を疑い、そこにいた人々を見回した。みな一様に、動揺している様子だった。出ていけって、何処へ?今日は争点整理のために、わざわざ東京からかけつけてきたのに、なぜ?
「弁護士の先生のみ残って。えっと、S先生はここにいて。それから、次に、社協さんの弁護人はあとで。S先生と話が終わったら、呼びますから。取りあえずとりあえずあとの方はみんな退室して下さい」
それは、半ば強引とも思われるような口調だったが、誰一人反発するものはいなかった。弁護人だけ残し、他の人は出ていけという言い方に、当事者である原告を埒外におくような印象を持った。この行為は一体、どういう意味を指すのだろうか。これが通常の裁判スタイルなのか。手続きの現実について、なんの事前の説明も受けていなかった私のなかで、様々な疑問が湧き上がってきた。この進行に不信に感じたのは、私だけだったのだろうか。
私同様、現状を呑み込めない姉たちも首をかしげ、不安を隠しきれない様子で、うつむきながら廊下へ出て行った。原告である我々の意見なしで、決着をつけるつもりなのだろうか――そんな疑いを持った。
そんな中、以前聞いた話を思い出した。裁判官とは、早期に事件を解決する人間ほど優れている、と。ビジネスマンでいえば、トップセールスマンで、マネジメント能力が備わっているというところだろうか。しかし、このような手法で事件を解決した所で、その裁判官は市民の信頼を得られるのだろうか。早期解決のために、当事者を除外して話を進めるのが、この世界の常識ならば、それは恐ろしいことのようにも感じた。そんなことを考えながら、裁判所の廊下で立たされ、待っていた。
すると、廊下でにぎやかに世間話する声が聞こえてきた。社協の連中だった。自分の懐が痛まずに、裁判が出来ている役人さんたちは気楽なもんだと思った。有権者(町民の血税)の金で裁判を行っていることを。彼らは全く理解してないと思った。身銭と貴重な時間を割いている人間との差は明らかにでていた。彼らの態度を目の当たりして、どんなことがあっても負けるわけにはいかない――そんな気持ちが、今まで以上に湧き上がってきた。
20分くらい経過した頃、S弁護士が部屋から出てきた。その顔を見て驚いた。険しく、血の気がひいた表情。まるで、ドラキュラに血を吸われたような人間の風貌で、東京からきた時の顔とは、まさに別人だった。一体、室内で何がかわされたのか。S弁護士の表情からは、何か精神的に強く圧迫されたような様子がうかがえたが、ここは裁判官とさしで何を話したのか、単刀直入に聞いてみた。すると、S弁護士、廊下で中腰になり、低い声でこう言った。
「我々が要求している額は、難しいでしょうね。犯人が刑事裁判の自供で認めている213万円は確実だと思うのですが、それから、先はうまくいっても・・・・」
そこから先の言葉はなかった。私は、さらに一歩踏み込んで聞いた。
「うまくいって700万円は無理でも、600万円くらいが落としどころにならないのでしょうか」
S弁護士は先生は「いや、わかりません」と言い、私の質問をはぐらかすように目線を外した。私は、大きなショックを受けた。その様子は、まるで、牙をぬかれた猛獣のようにおとなしくなっていた。最初に出会った時の、威勢のいいS弁護士の面影はどこにもなかった。当事者を除外したあの部屋のなかで、一体、何があったのか。裁判官は、彼に何を言ったのだろうか。そんな疑問が、頭の中をぐるぐるとめぐっていた。
社協側の弁護士人らが部屋に入って行った。彼らの、時間は割と短く、出てきた彼らの表情には、S弁護士のような緊張したものはなかった。おそらく、社協側としては、裁判官に、損害賠償額を値切り交渉をしたのだろうと思えた。
その後、全員中へ入り、そこで争点準備は終了した。あまりにも内容のない争点準備だったが、別の視点から見ると、ある意味、素人が遭遇することができない生々しい、リアルな司法を見たような気がした。裁判官と弁護士の密室の会話。この会話の真相は、彼らのみ知る「司法」とは、何なのだろうと考えさせられた。
その後、S弁護士を空港まで家族を共に送り、ほんの少しのフライトまで時間、S弁護士を囲んでお茶を飲みながら話したが、つくり笑顔のS弁護士の話からは、遂にその日、あの部屋でどういうやりとりがあったかを理解することはできなかった。