司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 2004年5月19日、私は刑事裁判の第1回公判に傍聴出席した。

 矢吹副検事を探し回った時は、この裁判に対する思いや伝えたいことが山ほどあって、無我夢中だったため、ここが裁判所だったことを、全く意識してなかった。

 しかし、ふと落ち着いて辺りを見渡すと、裁判所建物の古くなった景観に、昭和時代の会社にいるようなレトロな感覚が襲ってきた。裁判には無縁な人生を過ごしたため、「これが裁判所か」と見回してしまった。「まるで町役場と変わらない雰囲気じゃないか」とも思った。

 ところが、法廷に入り、傍聴席につくと、辺りの空気が一変し、何か氷つくような寒々しいイメージをもった。今までここで、何人もの人がここで裁かれたり、己の主張を通し戦ったのだろうかと思うと、鳥肌がたってきた。裁判とは時に人生を狂わせるものだと感じていたからだ。

 傍聴席の前には、木造でできた、フェンスがあり、まるで古代ギリシャの格闘技パンクラチオンみたいなイメージを持った。通常の格闘技でのイメージで想像すると、被害者側の席が赤コーナー、加害者側の席が青コーナーにみえ、真ん中にある四角いテーブルが、裁判館に主張するためのリングが見えた。そして、その傍聴席の前にある木造でできたフェンスはロープに見えた。傍聴席は観客席。

 もちろん裁判は、格闘技ではないが、ある意味一人、一人が人生をかけた真剣勝負である。なぜ裁判≒古代パンクラチオン(格闘技)と連想し結びつけたかというと、古代パンクラチオンは打撃技と組技(グラップリング)を組み合わせたエジプト起源の格闘技で、試合の勝敗は相手がギブアップすることで決せられた。

 競技者は腕を上げることでギブアップしたことを示すことができたが、多くの場合ギブアップは一方の競技者の死亡を意味したからだ。私にはそれと同じように、裁判での勝敗は人の人生を左右すると、思っているからだった。

 話はずれたが、私は、裁判とはそれだけ重いものだと認識していたし、そのことは裁判を知らない人も含めて、一般の人の感覚もそれに近いものを持っていると思っている。

 傍聴席に戻り、腰を下ろしあたりを見渡すと、傍聴している人の数はまばらだった。おそらく、われわれ家族数名のほかは、加害者の一族と思われる人が6名ほど。そのほか学生のようにみえた。それぞれ、どんな思いでこの裁判に来ているのだろうか。被害者家族として、そんな気持ちを持った。

 はじめに、右側のドアを開けて、ロープか手錠かよく分からないが、手をつながれて犯人が入ってきた。手をロープみたいなもので引っ張られているその女性の姿は、まるでオリから連れ出されてきた動物をようにみえた。

 そして、検察官、弁護士、そして被告人、それぞれが席に座わった。その光景は、とても物々しいものに思えた。

 私が見た被告人の印象は、自分が想像していたものよりはるかに威圧感がある存在だった。窃盗映像テープは見ていたが、本物は想像以上に、がっちりした体形で、表情も威圧してくるようなものがあった。

 わたしは犯人をにらんだ。

 「父親を苦しめた犯人」

 冷静さを、よそおい穏やかにコントロールしていた心が一変し、激しい心情が込み上げてきた。

 次に、法服を纏った裁判官が、軽く頭を下げ、奥の扉からゆっくりと登場してきた。予想外に今風の若い裁判官だった。裁判官という仕事にどこか年輩の人間をイメージしていた自分に気が付いた。

 いよいよ裁判がはじまるのかと、拳を握りしめ、私はじっとその成り行きを見守った。



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