こういう言い方には、異論がある弁護士の方もおいでかと思うが、一般市民にとって、弁護士はある種、「用心棒」的な存在として受けとめられていると思うし、現に私もそう思ってきた。さらにいってしまえば、「敏腕」と呼ばれるような弁護士のイメージのなかには、いい悪いではなく、刑事事件においてたとえ社会一般が有罪を確信しているようなケースや、とても勝ち目のないような民事裁判でも、無罪や勝訴判決を導き出すような力を持っている存在、のようなものまで含まれる。
これは常に正義ではないかもしれないが、少なくとも社会にはそうした弁護士への期待感のようなものが確かに存在している。ただ、この「力」を持った弁護士は、本当はほんの一握りなのかもしれない、と思うようになっていた。そして、この私たちの裁判で私たちが必死に協力を求めて、探してきた弁護士も実はほんの一握りだったのかもしれない、と。私たちの弁護士への失望のなかには、私たちの「正義」ために闘ってくれる存在がいないことと同時に、こうしたある意味、彼らの「力」をもった存在に出会えないことも影を落としていたように思う。
そんな思いのなかで、弁護士探しと決別し、民事訴訟の準備を続けていた。とにかく背中を押されるように、バタバタした日が続いていた。私たちの頭のなかに、弁護士以外の士業、司法書士や行政書士という専門家の存在が浮かんでいた。弁護士の人たちは、この人たちを「隣接士業」というそうだが、いかに法律系の士業のなかで、弁護士が自らを中心的存在と見ているかが分かる。
しかし、弁護士と決別して、本人訴訟を目指す私たちには、この存在が急浮上していたのだ。素人が弁護士を付けている相手と闘う。その際にとにかくミスを出さない、さらに正直にいえば裁判で恥をかきたくない、という思いが私たちのなかにあり、もはや彼らしか頼る場所はない、という気持ちもあった。自らを中心視している弁護士には、弁護士に失望した市民が頼る先が、その「隣接」であるという意識は、果たしてあるのだろうか。そんな気持ちも過った。
私たちは、これからの裁判所提出資料などで、必要なチェック事項については、司法書士に相談に行くことにした。しかし、実は既に兄が地元近所の司法書士の所へ行ったところ、あっさりと拒絶されてしまっていた。理由は、私たちの裁判が町(行政)を敵に回しているからだった。やはり地元のつながりのなかでは、弁護士同様司法書士でも、こうした事態になるということを知ったのだった。
そこで私たちは、この司法書士に紹介された、家から車で40分離れた場所の別の司法書士に会うことにした。こちらで準備していた裁判所に提出するための陳述書関連や証拠等のものを整理し、確認して頂くことにしたのだった。
初対面の、その司法書士は、その事件の詳細を話すと、関心を示してくれて、「ひどい事件だ」という言葉を返してきた。彼は親身になって聞いてくれた。その時、私たちは正直、新たな味方ができたとは感じた。ただ、一面、これは法廷で寄り添ってくれる弁護士に対する思いとは異なっていたともいわなければならなかった。私たちの前には、やはりこれからの「本人訴訟」という現実が重くのしかかっていた。