取りあえず、裁判の結果は出た。私たち家族は、司法が私たちの主張を認めくれたと、素直に受け止めた。弁護人なしの勝利は、気持ちの中で安堵感以上の嬉しさとして湧き上がってきていた。
そんな中、兄から、九州のブロック紙がこの事件を、記事として大きく扱ってくれたという吉報を受けた。私は早速、その新聞の東京本社まで行き、手に入れ、幾度も読み返した。まずます勝利したという実感が増し、自分に対する自信にも繋がっていった。
嬉しさが倍増した私は、今まで話を聞いてくれた数名の方々に電話で、この結果を報告した。地方の事件とはいえ、ブロック紙の報道の威力も大きかった。専門書を扱う出版社の方々には、是非確かめたいから、記事コピーをFAXで送ってくれ、と言われた。また、多くの人たちから、電話ごしに祝福された。
最初は、ただただ喜びに浸っていた私も、こうした反応に触れるにつけ、改めてこれがただの裁判勝利でなく、本人訴訟の勝利であることへの驚きを込めたものであることに気付かされた。これが本人訴訟というものの現実なのか、と感じてきた。
営業の合間、用事がてらに、ある法律専門の出版社に顔を出した時のことだった。私にいつも対応してくれている同社の担当者が、私の顔をみるやいなや、席を立ち上がり、頭を深々と下げ、「ごめんなさい」と謝罪してきた。
一瞬、なんのことかと、私は戸惑いを持った。なぜ、私に謝罪をするのだろうか。首をかしげながら、その担当社に理由を尋ねると、彼はこう言った。
「プロの弁護士が素人に負けるとは、微塵も思わなかった」
だから、本当にすまないと。つまり、本音では、「私が負かされるとそう思っていたのですか」と切り返すと、「そう」とすまなそうにうなずいたのだった。そして、こんなふうにも心中を正直に語ってくれた。
「正直、法の番人には負け、必ず『敗北』するだろうと確信していた。しかしながら、あなたは、自分の考えを曲げすに司法に勝利した。だからこそ、心から詫びたいという気持ちになった」
私は、こう言った。
「一般論からすれば、だれもがそう思うのは当然です。あなた以外にも、プロの弁護士に委ねたほうがいいと何度も言われましたからね。ただ、こちらも、手は尽くしたのですが、引き受け手がいなかっただけですよ。もちろん、裁判中は不安でいっぱいでしたけどね」
すると、彼の表情は一変し、「これは、物凄いことですよ」と褒めてくれた。
この日は純粋に、本人訴訟の勝利の喜びを、多くの人々と分かち合えた日だった。