いよいよ刑事裁判・最終公判の日が近づいてきた。これといったことは特別何もできるものもなかったのだが、今後の見通しについて深く考えた時期でもあった。
なぜならば、私をはじめとする、兄や地元に住む姉が、今回の事件に関して、ヘルパーの派遣元である社会福祉法人に、直接出向いたり、電話で何度もコンタクトをとり、何を言って、相手はのらりくらりとかわすだけで、時間だけが過ぎるだけだったからだ。
彼らは、「犯人側と会って当人同士で、話してください」とかわすだけで、ひたすらこの件から逃げの姿勢だった。雇用している側の責任すら全く感じさせない対応で、要するに、この件に関しては、全くわれわれには無関係、といった態度だったのである。
今、振り返ると、まずはじめに、「白を切る作戦」が彼らの中では、既に始まっていたような気がする。この対応の裏に、相手側弁護士の深い関与、入れ知恵があるとも考えていた。
この事件の報道があった直後、町の責任者である町長・兼社会福祉法人の理事を務める人物が、うちにやってきた時、姉が「窃盗されたお金は必ず返して貰います」と言ったのに対し、彼は、「あたりまえですわ」と言った。しかし、その場はいい顔して立ち振る舞っていたが、その後なんの音沙汰もなく逃げてばかりだった。
この町のトップが逃げ回る姿は、見苦しく、私たち家族の心情に沸々と怒り込み上げ、それが私たちを苦しめていた。ただ、その逃げる姿の、あまりにも見苦しさが目にあまり、なぜか逆に気力を奪われていたのを覚えている。
その町長の姿は、ニューヨークに住む兄までにも、もちろん伝わっていた。不適切だった行政の対応に、業を濁した兄は、話し合いをしっかり彼らと持つために、ニューヨークから緊急に帰ってきたのだった。
当時、兄は私にこう言った。
「俺が、一か月帰ってくれば、すべて解決しやる」
さすが、兄貴、力強い言葉だった。家族の中でもっとも、正義感が強く真直ぐな人物だったため心強かった。私は内心期待していた。例の女性国選弁護人士とのメールで電話等でのやりとりで、彼女が提示したものが、コロコロと変わったこともあり、兄の力に期待したい気持ちもあった。
同時に、この兄が帰国したのには、もう一つの理由があった。今後についての方針決定である。私は、この時、なるべくなら、民事裁判には持ち込まず、話し合いで片が付けばそれでいいと、心の奥底から思っていた。最終公判の前日、兄弟が揃い、今後の刑事裁判後の話になった。みんなの思いは、私と同じくやはり「裁判はもう嫌だ、民事裁判は避けたい」。この思いが強かった。
10数年ぶりに再会した兄弟が真っ先に向かったのは、母が入院している施設だった。バラバラだった家族が、数十年ぶりに再会した喜びを覚えている。しかし、懐かしさを浸る暇なく、翌日、私たち家族は裁判所へと向かった。
私は矢吹検事に言われた通り、最終公判には出廷し傍聴席についた。傍聴席は、思ったより人が多くいた印象をもった。
いよいよ最終公判が始まる。前回公判では、話を聞く限りでは、相当担当の検事の迫力があったとの報告を受けていたため、なぜかこのラウンドも内心期待していた。家族みんながそんな思いだったと思う。