高裁裁判官が揃い、それぞれの裁判官の紹介があった。記憶をたどると、それが終わると同時に、葵裁判官(仮名)以外のは、まるでこの案件のあとは任せたという感じに、退出していった。その後、簡単な事実確認がさらりと行われ、審理が動き始めた。
われわれと社協側双方に対し、事案の全体像を確認するための簡単な質問が行われた。社協側の、受け答えは終始「はい」といったものだったように記憶している。その姿をみていると、当然のことかもしれないが、裁判官と社協側の弁護士の打ち合わせは、事前に、しっかりと済ませていたのだろうという印象をもった。
こういう場合、裁判官と弁護士がどの程度のことまで申し合わせているのか、といったことも、私たちには分からず、それだけに想像を膨らましてしまう。スタートから何を遅れをとっているのではないか、ともすればそんな不安が頭をもたげてしまうのだ。
葵(仮名)裁判官の様子を見る限り、何らかの形で、われわれの考えを、短い時間に引き出し、落とし所を探っているようには感じた。その間、「和解」という表現は一回も彼の口から聞かれなかったが、むしろ、弁護士いないわれわれに対し、それらしき言い回しで、まずは、やんわりとした和解への感触を探っているようにも受けとれた。
しかしながら、この段階では、私たちは和解などはみじんも考えていなかった。和解という落とし所を探るなどということ自体、民事裁判では常識ということを、そのころの私たちがどの程度理解していたのかも分からないが、何も落ち度がない父の要求としては、私たちが求めているものは当然の、妥協の仕様がないものとの感情は強かった。
そもそもハナから和解を探るという司法のスタンスと、一般の訴訟当事者の意識にある隔たりを専門家はどのように理解しているのか、という思いもある。もちろん、これは私たちの側の司法への理解の問題、要は弁護士から「裁判とはそういうものです」という形で片付けられそうな問題ではあるのだが、その妥協がどの程度で、それがどういう心情なのかは、やはり当事者でなければ理解はできないはずだ。
どこまでいっても出口が見えない不毛な議論になるのかもしれないが、やはりのっけから「和解」を探り出しているととれた裁判官の姿勢には、軽い失望を伴った複雑な思いを持った。
裁判としては、今回の裁判官の様子からは、嵐の前の静けさといった感じもあった。和解といっても、逆に相手側がそうすんなりと折れてくるとはとても思えない。まして、こちらを納得させる返事などとてもとても期待できるわけがない、というのが、その時の私の偽らざる本音だったのである。
少しも油断はできない。いよいよ、これから勝負になるーーそんな気持ちが、一審同様、弁護士なし裁判に臨む私たちの覚悟を、より強固なものにしていった。