取材当日は、どしゃぶりの大雨だった。仕事が終わるやいなや、電車に駆け込み、取材が行われる恵比寿へ向かった。下車してもなお、雷と嵐のような雨は続き、傘は役に立たず、撮影事務所に着いた頃は、靴、ズボンはグチョリ濡れている有様だった。
撮影事務所のドアを開け入ると、カメラが用意され、気が付くとすぐそれはに回り始めた。その瞬間から、靴、ズボンが濡れていることを忘れてしまっていた。無意識のうちに、背筋が伸び、だんだん心臓の鼓動が速くなり、緊張感がグッと増してきた。一旦深呼吸をし、平常心を装いながら、取材の問いに明確に答えようとするが、なかなかうまく立ち振る舞えなかった。
振り返ると、同じことを何度か繰り返し答えていたような気がした。そんな中、最も記憶に残っているのは、父が受けた精神的苦痛を示す「ボケとの葛藤した日々の日記」の話をしたことだった。胸が凍りつくほどの孤独感や耐えがたい辛い痛みがオーバーラップすると、その心情がこみ上げ、次第に私の声がつまり、震えてきたのを覚えている。
ここで、感情に流され、泣き崩れては視聴者に真実が伝わらないと思いながら、気を取り戻し、なんとか乗り切った。どこか抜けている部分はないかを意識しながら、説明を続けたつもりだったが、どうもうまく伝えることができなかった箇所があったように思えた。
何年ぶりだろう、こんなにカチカチになったのは。何度も喉はカラカラになり、生唾をのみこむが無駄だった。15年以上前になるが、ニューヨークでのパンクミュージシャン時代、イギリスから全米ツアーに来た大物バンドとCBGBで共演した時の頃を思い出した。あの時は、確か、有名な雑誌のライターらや、レーベル会社(レコード会社)などが来ていた。連中を意識していたせいか、プレイにきれがなく、ぎこちない演奏してしまった。まさしく、あの緊張に似ていた。ミスは許されないというプレッシャーがのしかかっていたのだった。
2時間以上、話しただろうか。撮影も終わり多少の安堵感はあったものの、様々な場面を振り返ると、不安もぬぐいきれなかった。この番組を通じ私たちが言わんとすることを一般視聴者は、理解してくれるだろうか――。-とにかく、やるだけやったんだ。後は、放送されるのをまつだけだと腹をくくった。
記憶をたどると、取材から1か月経過したのち、テレビ東京「ガイアの夜明け~介護保険のでたらめ パート2」が放送された。介護保険を食い物にする業者などの摘発した内容が主だったが、番組を見ると、全体的に、我が家の事件がクローズアップされたようにも見えた。当時 役所広司さんが一人二役を演じるシーンがあるのだが、我が家の事件を、大物役者である彼が演じてくれていたのには正直驚いた。
どんな番組構成になるのだろうと期待と不安を持ちながら見たが、内容は一目瞭然だった。警戒していた相手側の弁護士のコメントは特になく、社協幹部らが横にずっしりと構えて座っているシーンもあったが、余裕のある表情には見えなかった印象を持った。
それもそのはず。番組中、「お金がなくなる苦情はなかったのですか」の取材者の問いに対して、社協事務局長の回答は、「お金に関する苦情はなかったですよ」と、はっきり言い切った後、「苦情でなく、お金がなくなる相談はよく聞いていた。その相談を苦情として扱っていれば」とおどおどした歯切れの悪い言い方で、切り返し答えていたのだった。彼の表情からは、もうこの場から逃げ出ししたいというオーラが、ありありと浮かんで見えた。
番組を見ていた私もこのコメントには、呆れてものが言えなかった。横に座っている弁護士の表情が、硬直したように見えたのは、私の目の錯覚だろうか。さらに、「お金がなくなる相談のことを苦情と言わずになんというのであろうか」という、蟹江敬三さんの番組コメントが付された。また、同時に私が提出したお金がなくなる相談にいった時の証拠となる「社協議事録」も番組で流された。
さらに、社協理事兼任の町長に、「この事件の責任はだれがとるのか」と、責任の所在について問うと、彼自身カメラの前で、切れたのか、自滅したのか、取材を避けるように、カメラを手でどかしはじめ、そこで取材は終了したのだった。のちに、この件で取材した人間に聞くと、これは突撃取材ではなく、正式に町長には、アポイントを申し込んでの取材だったと聞いた。ただ、残念なことに、この番組は私の地元では放送されてない。もし、放送されていたら、彼はどうなっていただろうか?
テレビの前でも、彼らの事件に対する意識は何も変わってなかった。その姿勢は、不純で見苦しく、まさしく軽蔑に値するように映って見えた。老人への経済的虐待、人権侵害を犯しながら、なぜこのような連中が介護事業に携わっているのだろうかと、改めて憤りを感じた。
最後に番組のコメントで、父への思いから、全国の介護に携わる方々に、「物でなくはなく、人を扱っていることを意識してほしい」とメッセージを残した。この事件から、老人介護において守られるべき老人の人権や利益を考えてほしいという、率直な気持ちを込めたものだった。