「犯人がわかったよ」
姉からの連絡だった。午後2時30分、銀座数寄屋橋付近の人通りの多い交差点。職場の人に聞かれないように姉は、小声で電話してきた。都会の喧噪にかき消されそうな声を聞き漏らさないように片耳を押さえながら注意深く聞いた。心の中の薄暗い雲が少しだけ晴れていく気がした。
ビデオはしっかり犯行現場を映していた。犯人は、週平均2、3日来ていた23才の介護ヘルパーの島原信子(仮名)。彼女が来るとお金が消える。ビデオ撮影前に、警察に提出した記録簿通りの結果だったので、やっぱりという感じだった。警察に求められた「決定的な証拠」。これで、警察は捜査に着手する。安心して暮らせる日々が戻ってくる。そう思った。
姉が地元警察署に窃盗の一部始終が録画された映像をHDからテープにコピーし地元警察署まで届けた。警察はようやく被害届を受理した。「捜査協力に感謝します。必ず窃盗犯を逮捕します。」と刑事は力強く言ったという。これで一安心と思っていた。
姉からの電話の3日後に、私の元にもコピーが届いた。父と私たち家族を苦しめた忌まわしい時間を清算する映像だ。しっかり見届けなければと思う半面、事件解決のためとは言え父親のプライバシーを覗き見る事への重苦しい抵抗感に苛まれ、まるで古代ギリシャ神話の「パンドラの箱」を開けるような気分でビデオを見た。
介護ヘルパーは、父が庭に草むしりのため庭に出ると、箒で掃く振りをしながら、庭の方をちらっと見ると、慣れた手つきで、鴨居にかけてあるジャケットのポケットから素早く金を抜き取りニタッと笑った。私には、人の姿をした人以外の何かに見え、鳥肌が立った。
介護ヘルパーは、部屋のあちこちにかけられた上着のポケットを全てまさぐり、金を抜き取ると、今度は押し入れをあけた。そこには、脳梗塞の後遺症で歩行困難な父親が、1〜2ヶ月分の生活費のつもりで銀行から卸した金が保管してある。離れて暮らしている私たち家族でさえ知らない父の命綱の保管場所。そこから封筒を抜き取り、隣の部屋の奥へ行くと紙幣を数えた。素早く平然と慣れた手つきで。
介護ヘルパーの帰宅後の映像にも衝撃的なシーンが記録されていた。父親はたばこを探す、だがない。タバコを買いに行こうと思ったのか、鴨居のジャケットのポケットに手を突っ込む。何度も何度も。そしてその度に首を傾げる。そして両手で頭を抱えその場に座り込み。また首を傾げた。一人暮らしの介護を必要とする老人の絶望。
あの気位の高い父親が、杖をつき足を引きずりながら、飢えを凌ぐため近所のほか弁やタバコ屋に行って、頭を下げツケを頼まなければならない日々を過ごしてきた。記憶力は誰でも老いとともに低下するが、使ったはずもないのに消えていく金。襲ってくるアルツハイマー性痴呆症の恐怖。頭を抱え首を傾げながら、しけモクに火をつける父。私は身震いするほど怒りがこみ上げてきた。「許せん。絶対に許せん」
ビデオを見た直後、私は平静ではいられなかった。深夜10時30分過ぎ、私は姉に担当刑事の名前と電話番号を聞き、すぐさま電話した。頭に血が上り混乱していたが、担当刑事に映像確認後の状況を詳しく聞きたかった。
刑事は、「例え被害者家族でも捜査中の案件ですから・・・」と口が重い。納得できないが、最後に「一刻も早く逮捕してください」と言った。刑事は「全力は尽くしますが、金銭に関する件はなかなか難しいんですよ。」と言った。今思えば、その後、我々家族に降り掛かる次なる試練を予告する言葉だったように思える。
警察の回答に、とまどいもあった。警察はなぜ証拠となる決定的映像を手にしながら、それから1週間以上たっても犯人逮捕に踏み切らない。なぜ? 理由も教えられず過ごした犯人逮捕までの1週間余りの時間は、苛立と緊張の中にいた。
警察は、被害者の捜査協力として介護サービスを約8日間、休ませることになった。父親の生活は不便になるが、逮捕まで犯人ヘルパー信子の派遣先である社会福祉協議会や父親からヘルパー信子にこちらの動きを悟らせない狙いがあった。
約1週間過ぎ、社協から姉に、「そろそろ介護サービスを再開したいのですが」と連絡がきた。我々にとって犯人ヘルパーが逮捕されないまま、介護サービス再開は言語道断な事だった。何か、いい方法で、時間を稼ぐ方法はないか?
警察が犯人と社協に対し、密かに捜査していることが、相手側に情報が漏れると、我々の苦労が水の泡になる、そう思い、担当刑事に相談した。「特に問題ないですよと」と言うが、派遣ヘルパーの不祥事に気付いた社会福祉協議会が、責任者たちの体面を優先し、証拠隠滅に走らないとも限らない。ビデオに映った窃盗は言い訳できないが、窃盗が日常化していた事実を行政が、火消にかかる可能性は十分にあると考えたからだ。
介護サービス再開は最も不愉快だった。まだ逮捕されていないので公になってはいないが、犯行現場を捉えた映像で、窃盗犯と分かっている人間が、また我が家の敷居を跨ぐ。はらわたが煮え返るほどの怒りがこみ上げた。
一応、当番制なので、ヘルパー信子の日以外のヘルパーの窃盗はないとは思ったが、姉に出勤前に父の家に行き、一応父親の所持金を確認し、帰宅時に確認して記録をつけることにした。
当番制なのでスケジュール通りなら窃盗ヘルパーが来る日が X-day だと思っていた。しかし、急遽、当番が変更になったらしく、予定外の日に窃盗ヘルパーがきた。
「急遽、当番が変わり、来ることになりました。」と言いながら、いつものように部屋に上がり込んだという。そして彼女はいつものように窃盗した。
もう限界だ、警察に再度電話、「お金が紛失しています。早く逮捕して下さい」。窃盗撮影日の2月28日から14日も過ぎていた。
3月17日、ようやく窃盗の疑いで、23歳の介護ヘルパーは逮捕された。