地元地裁の争点整理の現場に初めて出席する私は、ほんの少しだが、気分が張りつめていた。そんな時に、東京からやってきたS弁護士の姿を裁判所内通路口見つけると、私のなかには、「守護神」が到着してくれたような、そんな頼もしさとともに、安心感が生まれた。私はすぐに、彼に駆け寄り、挨拶を交わし、今回の展開について話した。
その後、地裁の争点準備室へ向かった。地裁のテーブル席にS弁護士が腰掛け、裁判官と書記官を待っている間、私は、S弁護士がどのような形で主導権をとり、進行していくのかに思いをめぐらし、彼の仕事ぶりに大いに期待を抱いていた。
準備室の中は、テーブル席以外にも、社協関係者や原告側の家族らがずらりと顔をそろえていた。我が家の方も入れると、17名くらいのギャラリーがいただろうか。私だけは、S弁護士の真後ろの席に座わらせてもらっていた。
予定時刻より5分ほどおくれて、法服を纏った裁判官と書記官が颯爽と入ってきた。頭が薄い感じの裁判官と、メガネをかけた堅そうな書記官が、中央に腰をかけた。早速、陳述書をぱらぱらと、めくりながら見はじめていた。一瞬、彼らがこちらの方をギロリと見渡し、私はついに手続きが開始されるのだ、と気を引き締めた。
その瞬間だった。裁判官がこんなことを口にしたのだ。
「えっと、なんの件だっけ?」
えー、嘘だろう、と、正直、私はずっこけそうになった。すると、すかさず、書記官が裁判官に小声で、「損害賠償事件ですよ」と言っていることが聞こえた。鉄壁のやり手のようにみえた書記官の額に汗が浮き出ているようにも見えた。
裁判官の一言で、私は拍子抜けしてしまった。今まで、何度も繰り返し行ってきた争点準備のための電話会議は、一体何だったのだろうか?何件も抱えている裁判官にとって、いちいち個別の案件など覚えていられないということで、この世界ではこれが当たり前ということなのだろうか。それすら、素人のわれわれには、判断できないことだった。
裁判官も書記官に小声で答えるように、「あっ、そうだったね、損害賠償だったね」と、半笑で返していた。当事者にとっては、私たちの事件が、相当軽視されているという、心証をもった。
裁判官は、再度、ぱらぱらと陳述書をめくりはじめた。すると、今度は、これまた半笑で、今度はS弁護士に尋ねた。
「この事件テレビで扱われたんだ?どこの局?
S弁護士は答えられず、沈黙が続いた。そのため、代わりに私が、裁判官に詳細を伝えたが、裁判官は、私から目をそらし、軽く流すように聞いていた。その時、私の中に、S弁護士に対する不安が過ぎった。なぜ、この程度のことが答えられないのだろうか?。
それから、ほんの数分間だけの、争点整理のやりとりがあった。小声で、ボソボソと陳述書を軽く読み流しながらの確認、それから書面とのにらめっこ。双方とも、顔はうつむいたままだったのを記憶している。
裁判官が何かありますかと聞くと、小声で「何もありません」と双方の回答。すると、裁判官もこの状況に、まるで嫌気がさしたかのように、腰かけている椅子にふんずりかえりながら、不機嫌な調子で、こんなことを口走った。
「こんなの、もうグダグダやっても仕方ないから」
そして、追い打ちをかけるように、強い口調でこう言ったのだった。
「なんで損害賠償でこんなに請求するの?」
私は、なぜ裁判官が争点整理の最中の、この場面で、損害賠償請求額について、こんなことを言い出したのか不思議でたまらなかった。裁判官は、わざわざ、この一言が言いたくて、S弁護士をここまで呼びつけたのだろうか?
何を言われようが、S弁護士、ただ静かに黙っていた。実はこれが、最悪な展開の始まりだった。なぜ、S先生は反論をしようとしないのだろうか?S弁護士、一体どうしたのだろうか?なぜ、何も言わない? 何かがおかしい。なんなんだ、この異様な雰囲気は。私のなかで、そんな疑問がぐるぐると回っていた。
すべては、予想だにしていなかった展開だった。あるいは、これがアウェーの洗礼なのだろうか。東京から来ている、よそ者の弁護士がゆえに、こんな感じになるのだろうか。この世界の「常識」が分からない市民の、決定的に答えが出ない疑問に直面した瞬間だった。