司法というステージでの私たちの闘いは、「本人訴訟」という弁護士を伴わない、まさしく素人による「独力」でのものであったが、広い意味での闘いには多くの味方がいた。とりわけ、行政を相手にするなかで、情報提供や議会内での活動などで、私たちを支援してくれた地元議員の方の力は大きかった。
裁判所をあとにした兄は、私たちの闘いに協力してくれた議員の方に、すぐに裁判が終了したことを伝えた。その時は、一心不乱に闘ってきた日々が思い出され、話しているうちに涙が溢れてきた、と兄から聞いた。父が望んだこととはいえ、ここで司法での闘いを和解という形で終えることに、複雑な思いがあるのは、私も同じだった。
もし今、私たちのそばに、弁護士がいたら、そんな私たちにどんな声をかけたのだろうか。司法での解決の限界、判決に持ち込んだ場合の予想も含めて、この段階での和解が選択が最良の選択であることを述べ、私たちを納得させようとしているのだろうか――。いつもながらのことであったが、そんな気持ちが過っていた。
しかし、裁判という司法での闘いは終わっても、広い意味での闘いは、まだ終わっていなかった。
「あとは、俺に任せてくれ」
兄は、議員の方から、こんな力強い言葉を返されていた。闘いのステージは司法から移り、彼らが闘いのバトンを受け継ぐということだった。
裁判の終局は、紛争そのものの終局を意味すると考えるのが一般的だろう。逆に言えば、これ以上の解決は望めず、あとは多くの場合、当事者としては、納得しか残ってないように考える人も多いのではないか。私たちのケースでも、あるいは、相手方当事者とその関係者は、そう考えているかもしれない。
しかし、果たしてそれでいいだろうか、という気持ちが私たちには強くあった。父のこの裁判で問われたのは、父氏自身の損害への責任であると同時に、社会福祉のあり方そのものだと考えていたからである。こうした事態が起こり、こうした責任がとられる現状で、まともな社会福祉が築かれ、そして、市民はそれを享受できるだろうか。こうした事件が発生していたにもかかわらず、老人である父をボケ扱いし、「おカネを盗られるのが悪い」といった、社協理事の言葉が頭から離れなかった。
そんな思いから、私たちにのなかには、どこまで可能か分からないが、この件に関して、徹底的に追求しなければならない、という気持ちがあり、裁判が終わっても、はっきりと続けなければならない闘いとして私たちのなかに存在していた。
私たちは、今度は原告ではなく、一市民として、そのの思い、考えを、動いて頂ける町議員の方たちに伝え、こちらが詳細をまとめた質問上を添付の上、議会で託すことを考えていた。
まず一つ目は、父親が受けていた汚名を晴らすこと。次に、町議会で、この事件の責任者と責任の所在を明確に追及すること。そして最後に、疑問であった、犯人の裁判費用負担と損害賠償の詳細。損害賠償については、どのような形で、支払われるのか。町民の血税なのか、もしくは、理事が支払うのか――。
司法的解決という着地点に代わり、私たちには、この時、既にはっきりした次なる闘いの目的地が見えていたのだった。