司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 本当に民主的基礎はなかったか

 今回の裁判員制度の対象事件は重大刑事事件ばかりですので、年間2300件程度です。我が国に毎年提起される訴訟(民、刑、少年保護、家事審判事件)合計は280万件ほどです。それに附随する裁判所の大小の判断は、さらに数百万件を超えるでしょう。

 これらは、もちろん市民参加ではありません。99.99%以上の裁判は市民がその判断に加わることはありません。しかし、これをもって裁判が国民的基盤がないとか弱いとかいえるでしょうか。

 前にも述べましたが、民主主義国家においては、あらゆる国家機関は民主的基礎のうえに立たなければなりません。多くの裁判が一般市民の参加しないところで行われ、我々は戦後65年それを容認してきました。今回の裁判員制度だって、国民が今の職業裁判官による裁判はNO!だと言って採用させたものではありません。現在の多くの裁判が民主的基礎を有しないものか、そんなことはありません。

 絶対王制、専制君主制など政治が一部の強大な権力者の手に握られていた時代は、裁判の判断の基準もその権力者の独断で決められていました。朕は国家なりでした。

 しかし、憲法76条第3項も定めるように、裁判の判断の基準は、民意の結晶である憲法とその下に成立した法律なのです。裁判官がこの民意を無視することは許されませんし、また、この民意を侵す一切の圧力に負けてもいけないのです。

 その意味では、我が国の裁判は民主的基礎を有していることは明らかです。

 下級裁判所の裁判官の選任についても、最高裁判所の指名した者の名簿によって、内閣でこれを任命すると定めています。内閣が国民の選挙によって選ばれた人を主体としていることは明らかです。形骸化しているとは言っても、最高裁判所裁判官国民審査制があり、国会による弾劾による罷免制度が定められ、裁判官に対する公的弾劾制度が定められています。

 憲法は、その意味で司法の本質に配慮し、司法と民主主義とのバランスを保った制度をこのように定めているわけです。

 危うい「民意反映」の判断

 第1回に、司法とは何かについて定義を申し上げました。司法とは、具体的な争訟について、法を適用し宣言することによってこれを裁定する国家の作用だと言いました。

 裁判という言葉が示すように、裁判における国家意思の決定は、立法や行政のそれとは違って、過去に発生した事実への法律の適用という裁き判つ判断作用です。その裁判には、裁判官が勝手に独自の基準を用いることの許されないことは当然です。

 前記しましたが、民意の結晶としての憲法とその下に定められた法律が、その判断の基準になるのです。裁判員裁判で、よく、民意を反映する、市民感覚を反映する、市民の健全な常識を導入するなどと言われますが、民意、市民感覚、常識は、憲法と法律で示されたもの以外には判断基準であってはならないのです。

 裁判員制度は、事実認定だけではなく、量刑にも関与させます。刑事法の定める刑罰規定のほとんどは、上下かなり幅のあるものです。しかし、幅があるから、そのときそのときの感覚で勝手に決めて良いか。法律は具体的な基準こそ定めてはいませんが、その幅の範囲内で社会に発生することの予想される事件の態様を考慮して刑罰を定め、その軽重に従って具体的刑を定めることを裁判官に命じているものであり、その量刑は広い意味での事実に対する法律の適用です。そのためには、裁く者に、法律の知識とその真意を理解する能力を有し、人間、社会に対する深い洞察力を要求するものです。

 よく、事実認定については市民と専門家の判断方法に大きな差があるわけではなく、先ほど申し上げた討議民主主義の立場からも、これについて「討議に馴染む問題である」(緑大輔、法律時報77巻4号p41)との意見も述べられています。

 確かに事実認定と法律の解釈は異なります。裁判員に量刑までは委ねられないけれども、事実認定は委ねてもよいという意見(これは陪審制の発想ですが)があります。事実認定というのは、目の前にある事実が何であるかを認識することではなく、過去に発生した事実に関する断片的な証拠や資料に対する種々の角度からの検討・評価を経て出される結論であります。

 そのようにして争いある事実の真偽いずれかに判断すること、検察官に犯罪事実の立証責任があるから疑わしきは被告人の利益にというけれども、疑わしいということと黒だということとを何を基準に判断するのか、ということは、修練と経験を積み重ねても困難な作業です。

 一生に一度くじで選ばれた人と、そのような判断作用を苦悩を抱きながら、かつ上級審での批判を受けながら日常の仕事として経験を積み重ねている人とで、どちらが誤りのない判断をし得るかを考えなければいけません。また、その双方が評議した場合に、専門家に誘導されない素人が何人いるでしょうか。

 この社会ではよく適材適所ということが言われます。社会は人によって決まります。適材適所の選択を誤ったら、この社会はどうなりましょうか。

 人の生命・自由財産に関わる重大な判断に関わる人が、くじで選ばれた人なら誰でもよい、くじで偶然に選ばれた人の中からしか選定できないということは、合理的といえることでしょうか。

 ですから、私は、正しい司法の在り方として、憲法の規定を離れても、陪審制とか参審制というのはどうしても好ましいものとは考えられないのです。



スポンサーリンク


関連記事

New Topics

投稿数1,193 コメント数410
▼弁護士観察日記 更新中▼

法曹界ウォッチャーがつづる弁護士との付き合い方から、その生態、弁護士・会の裏話


ページ上部に