〈「国民の主体的参加」を根幹とした制度〉
ところで、裁判員法の全面施行は公布の日から5年を超えない範囲内において政令で定める日からと定められていたところ、その施行日直前になって、その成立に賛成した超党派の議員らが「裁判員制度を問い直す議員連盟」を発足させ、その施行延期を求める運動を行った。
その運動は、2009年7月21日の衆議院解散により実施された総選挙でその運動の中心となっていた議員が落選したことなどにより消滅した。
しかし、それによってその制度が抱えていた問題が消滅したわけではない。この制度は、司法制度改革審議会の最終意見書Ⅳ、第1で「司法への国民の主体的参加を得て、司法の国民的基盤をより強固なものとして確立するため」の一方策として提言されたものである。
この制度の根幹は国民の主体的参加にあり、その制度を維持しようとするならば国民の主体的参加は必須であり、法律もそれを踏まえて附則2条で「裁判員の参加する刑事裁判の制度が司法への参加についての国民の自覚とこれに基づく協力の下で初めて我が国の司法制度の基盤としての役割を十分に果たすことができることにかんがみこの法律の施行までの期間において……国民の自覚に基づく主体的な刑事裁判への参加が行われるようにするための措置を講じなければならない」と政府、最高裁に求めていたのである。
国民の自覚に基づく主体的参加があって初めて司法制度の基盤としての役割を十分に果たすと法律自体が認識していたということである。
「主体的」とは「ある活動や思考などをなす時、その主体となって働きかけること。他のものによって導かれるのではなく、自己の純粋な立場において行うさま。能動的」という意味を持つ日本語である(広辞苑)。
裁判員法自体が「主体的」な刑事裁判への参加を謳い、そのために施行までに5年の歳月を置いて政府、最高裁に対しその広報に務めさせたのは、国民の裁判参加について、それが主体的参加となるように理解を得るためであることは、その附則第2条の明記するところである。
〈罰則付き参加強制との矛盾〉
ところで、裁判員法では、国民の裁判参加は国民の義務であり、その義務も道義的義務ではなく罰則を伴う法的義務として定められている。最高裁大法廷2011年11月16日判決は、この国民の参加について、強制とか義務という用語は一切使わず、「参政権同様の権限を国民に付与するもの」と判示している。しかし、それが詭弁であることは、裁判員法110条は虚偽記載について刑事罰を定め、111条、112条は不出頭等について過料の制裁を規定していることからして明らかである。
つまり、裁判員法は、当初から二律背反を明記した法律であり、最高裁はそれを知りつつそれが表に出ないようにするために、あくまでも国民の主体的参加であることを否定しないように、参政権同様の権限論を展開せざるを得なかったのである。
国民に対し、裁判員となることを罰則付きで強制することは、附則2条に定める「国民の自覚に基づく主体的参加」とは絶対に整合し得ないから、国民の主体的参加が裁判員制度存立の基盤であるならば、というより、司法審意見書も「国民の主体的参加を得て」初めて成り立つ裁判員制度を提案している以上、罰則付参加強制を定めることは、その法律の趣旨の否定であることを立法者は容易に気付くことができ、また気付くべきであったのである。仮に、参加を罰則付きで強制しなければ制度として存立し得ないというのであれば、かかる制度は内在的、致命的欠陥を有するものとして存在の許されないものである。
2014年9月30日福島地方裁判所は、裁判員の職務を経験したことによって急性ストレス障害になった女性からの国家賠償請求訴訟において、制度の憲法違反との主張を排斥し、原告の請求を棄却した。その判断の到底容認し得ないものであることは別として、同判決は、その女性の急性ストレス障害が裁判員を経験したことによって発症したものであることは認めた。同女は、当初、勤務先の上司に過料10万円を支払ってほしいと願い出たが断られ、やむなく裁判所に出頭し、上記の障害を受けるに至った。制度としては主体的参加を謳いながら、国は現実には罰則をちらつかせ裁判員となることを強制した結果、国民に危害を加えることになってしまったのである。
今回の改正案では、この強制規定には一切触れていない。強制規定は、前述の本来の制度の趣旨からすれば有り得べからざるもの、制度自体に残してはおけない矛盾の産物であり、単に人集めの手段としてのみ規定されたものであるから、今回の見直しに当たっては真っ先に削除が提案されるべきであり、国会審議に当たっては、議員はかかる修正案を提案して審議すべきであろう。