司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 穏やかな春の日射しが、窓から差し込んでくる、気持ちのいい日曜の朝に、この国では、こんな大新聞の社説を目にしなければ状態になっている。そんな気持ちにさせられた3月29日付け社説「安倍政権の暴走 『いま』と『わたし』の大冒険」。一風変わった、分かりやすいとはいえない捻(ひね)りが加えせれた主見出しが読者にイメージさせるものよりも、その内容は私たちにとって、はるかに深刻な日本の現状を伝えたものだ。

 

 その深刻さの中心は、いうまでもなく、「安倍首相」である。この記事の大半は、彼に対する警鐘といっていいものである。社説は、彼とその政権の姿をブレーキをかけることない、アクセル全開の暴走車に例えている。「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」というスローガンとともに、「戦争」というテーマの前に、これまでになく、権力者としての抑制や自制という「作法」を身につけず、激走するその極めて危ない日本の首相とその政権の姿である。

 

 その文脈のなかで、安倍首相の「『日本が戦争に巻き込まれる』といった、ただ不安をあおろうとする無責任な言説が繰り返されてきた」などと語った防衛大学卒業式訓示、国会での自衛隊「我が軍」発言やテレビ番組の「街の声」批判発言、さらには、その全体的なムードのなかで飛び出した、三原じゅん子・自民党女性局長の「八紘一宇」発言が挙げられていく。

 

 そのいわば、手法としての特徴が、先がどこへ向かうかより、「いま」の強調と、自己中心、わが国中心といっていい「わたし」の強調と朝日はくくっている。それは、有り体にいえば、あたかも「これまでここまでの激走ぶりを発揮できた人がいますか、みなさん」と社会にアピールし、共感を得ようとするスタイルととれる。

 

 そして、嫌な話だが、この社説はきっちりそれを社会の空気が支えていることを指摘している。中国台頭、東日本大震災、「イスラム国」(IS)人質事件。焦燥感、危機意識が、国ぐるみ一丸、政府の足を引っ張るな、熟議よりトップダウン、個人の権利より集団優先社会という方向を引き寄せている、と分析している。

 

 もっとも朝日は直言していないが、それらが権力者に利用されている、という言い方もできる。失礼ながら、「国民」を持ち上げながら、自己弁明する論説を度々目にする印象がある同紙にあって、この社説ではメディアの実感として、「委縮」に関しても、そうした社会ムードの「液状化した社会に足をとられているのか、情けなくはあるが、率直な実感」と正直な感想を述べているし、表現は穏やかだが、そうした空気を支えている国民の意識覚醒を求めて、この一文を締めくくっている。

 

 それでは、私たちは結局、今、この社説から、何を考えるべきなのだろうか。それは、はっきりしている。それは「ブレーキ」にほかならない。その最大のブレーキはいうまでもなく、憲法だ。憲法こそが、戦後日本という国の、「戦争」への有効なブレーキになってきた、この事実をもう一度、そして何度でも私たちは確認しなければならない。

 

 そして、もう一つ、強調しなければならないのが、私たちの社会のなかで、どういう人々が、私たちのために、ブレーキの役割を果たし得てきたのかということだ。いうまでもなく野党だけでなく、自民党のなかにも、これまでその役割を果たしてきた人々がいた。野党とその与党内勢力の過去の役割から、今、何が足りないのか、それがそのブレーキなき今の状況と直結する。そして、その文脈で言えば、前記憲法をブレーキとして生かすための法律家、とりわけ弁護士は大丈夫か、ということも問わねばならない。

 

 過去を振り返り、いま、この状況を生んでいるのがどういう勢力が消えてきた結果なのかを見据え、彼らが存在し、役割を果たし得るには、今、どうすべきか。そして、憲法はどう守られるべきなのか――。「アベノミクス」という、いまだ実感できないマジックワードに期待を寄せながら、穏やかな春の日差しのなかで、日常を生きている多くの市民にとっても、朝日が締めくくる「できることがあるはず」の中身は、結局、まず、ここからたぐり寄せていくべきだと思う。



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