司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 今、私たちがこの国で、目の当たりにしている政治家や官僚が口にしたり、引き受けているとされる「説明責任」という言葉は、とても軽いものにしかみえなくなっている。そもそも英語の「accountability」という言葉には、単に説明する責任ではなく、出処進退を含めて重く責任を受けとめるというニュアンスが込められているという話もあるが、日本の現実はほとんど弁明・言い訳と同義と化している。

 

 そして、そうであればこそ、これをさらに軽くさせているのは、それが当事者の重い自覚によるのではなく、状況によって決定付けられていることだという現実も指摘しなければならない。説明の受け手である側も、「納得のいく説明」という言葉を使ってしまうが、実はこれもあいまいに扱われ、求められる側は、ともすれば、中身がなんであれ、結果的に責任追及をしのぎきれる弁明であればよし、それで足りるととらえてしまう――。

 

 だから私たちは、国会で真実解明と責任を追及されている官僚が、平気で「聞かれなかったから答えなかっただけ」という説明するのを聞くことになっているし、その説明に7割以上の国民が納得していなくても、それを平気で擁護する首相の姿をみることになっている。そういうことが、この国ではできることになってしまっているのだ。たとえ、翌日の新聞に、これを批判する論調が掲載されることが分かっていても、である。

 

 森友・加計問題で国会に呼ばれた官僚たちや安倍晋三首相の発言に、「説明責任」への自覚を読み取ったり、それに期待する国民はもはやどのくらいいるのだろうか、と言いたくなる。「膿を出し切る」とか「丁寧な説明」と首相がいくら言っても、答えは要するに「問題ない」の繰り返し。逃げの答弁に終始し、真相解明に背を向けても、通用するような「説明責任」だけが彼のなかにあるようにしか、もはや見えない。

 

 これを許している、前記した状況として、真っ先に野党のふがいなさを挙げる人もいるだろうし、また、過去と比較した自民党内の自律・自浄作用の欠落をいう人もいるだろう。だから、政権交代ができる存在の緊張感がなければだめなんだ、だから安倍一強が問題なんだ、と。しかし、それが一面現実であったとしても、政権交代の脅威がなければ許される「責任」の自覚は問われるべきだし(そういう認識であればこそ、こういう事態になっているという意味で)、また、勝ち馬に乗りたいがために許すというのが「一強」を支える周囲の本音なのであれば、自覚の軽さは彼らも同じということにもなる。

 

 そして、言うまでもなく、この状況を決定的に支えているのは、残念ながら私たち国民、世論だ。現在、じりじりと下がりながらも、驚くべきことに、まだ、世論調査では3~4割の国民が安倍政権を支持している。「説明責任」をとても果たしたとはいえない、果たすつもりがないとしかみえない国会の対応で、問題に「幕引き」などという言葉や期待感が、政権・与党サイドから出されること自体、相当に世論はなめられているし、逆にいえぱ、なめられるような世論状況が、彼らにそれを言わせている。ここで何度も書いていることだが、やはり私たちは、まず、それを自覚しなければならない。

 

 「責任」を本気で果たすつもりがない、果たさなくてもしのげるという自覚の人間からの「説明」を聞くことには、徒労感を感じざるを得ない。しかし、私たちがこの状況を自覚しなければ、彼らの弁明は終了し、「責任」が果たされたことになりかねない。私たちが最低限すべきことは、「納得しない」と言い続けること、そして、次の選択の時まで決して忘れないことである。



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