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 「検察の信頼回復のため」、とされる「法務・検察行政刷新会議」の協議が、今月16日から始まる。しかし、この会議が何をやろうとしているのか、今、どこに焦点を絞ることが重要であるという前提に立っているのかについて、いささか疑念があるといわざるを得ない。

 各氏の報道では、黒川弘務・前東京高検検事長の賭けマージャン問題での辞職を受けたものという趣旨が添えられている。検察官の倫理上の問題という視点は検討の対象に当然成り得るだろうし、黒川氏への処分が適正であったかどうかの問題もある。しかし、森雅子法相は、処分は適正として、早々に協議の対象から除外するような姿勢も示している。処分内容は、検察の信頼に影響していないという立場になる。

 しかし、このこともさることながら、今、検察の信頼回復を目的に、法務・検察行政の刷新を会議が謳うのであれば、まず、掲げられるべきなのは、政治介入と検察の独立であることは明白だ。疑念の根は、それがストレートに打ち出されていない会議のあり方にある。

 いうまでもなく、今回、検察が問われたことの核心は、賭けマージャン問題ではない。63歳で退官予定だった黒川検事長について、半年間定年を延長する突然の閣議決定、検察庁法に基づかず、黒川氏を検事総長に充てるという、政権の意思が反映したととれるこの動き。それをまさに後付けで正当化するような、時の政権の意向と介入で検察人事が動かせる形となる検察庁法改正案の登場。

 政権が、ある意味、堂々と検察の独立を脅かす挙に出た。このことを抜きに、検察がいま、語るべきものがあるだろうか、という思いになる。おそらく政権にとって予想以上の社会の反発、そして黒川検事長の賭けマージャンと辞職によって、この企みはいったん潰えた。この社会にとって、検察の独立の意義から考えれば、むしろそれで「救われた」と言いたくなるような、危機的状況だった。検察庁法改正案反対で、検察OBたちが意見書の中で示した危機感こそ、まさに現実を直視したものだったといっていい。

 一部報道によれば、この会議の議論のテーマとして、「法務・検察行政の透明性の確保」が挙げられている。もし、それが事実だとすれば、この「透明性」という言葉を、どういう認識のもとでこの会議は考えているのかを問わなければならない。いうまでもなく、今回の動きの発端になった黒川検事長の定年延長について、政権はおよそ「透明性」にこだわり、説明責任を果たすべきという認識とは考えられない姿勢を示し続けたからである。

 黒川検事長の勤務延長について、繰り返し森法相が語った、「東京高検管内で遂行している重大かつ複雑困難事件の捜査公判に対応するため、黒川検事長の検察官としての豊富な経験知識等に基づく管内部下職員に対する指揮監督が不可欠であると判断した」という話。「検察官同一体の原則」からの批判を無視し、同原則を無意味化するように繰り返された、この話はどういう扱いになるのだろうか。

 黒川氏がいない今、どういう支障が現に生じているのか、という、突っ込むのもばかばかしく思える、前記言い分を繰り返したことの釈明を今、しない、できないことは、およそ「透明性」の問題としてどう扱うのか、と言いたくなる。そして、なによりも前記原則を無視しても押し通そうとした、という事実こそ、より「透明性」への危機の現実化である認識が必要なはずなのだ。

 もちろん、検察が国民の信頼回復の途を模索する試み自体は歓迎すべきことである。しかし、今、問われているのは、賭けマージャンといった、検察官の資質に矮小化された問題ではない。検察が、政権によるあからさまな干渉と、それに道を開く企てが現実化した。それは一義的には、政権の中枢と、それに加担した法務省の問題として私たちは見なければならない。そして、それを検察の信頼というテーマに引き付けるのであれば、今回そうした状況にさらされた、独立への信頼を、どういう危機感をもって、今、受けとめるかということに尽きるのではないか。

 この会議が、波乱のあとの、「信頼」「刷新」「透明」という言葉を掲げた「やってる感」を醸し出すだけのものに終わらないか、私たちは監視しなければならない。



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