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 コロナ禍の中、広がる感染者らへの差別について、荒中・日弁連会長が7月29日付けで、声明ている。感染者・医療関係者等に対するSNS上での誹謗中傷、感染者が確認された学校・施設等に対する非難、医療関係者等の子どもの通園・通学拒否、感染者の自宅への投石、県外ナンバー車・長距離運転業者の排斥、感染者のプライバシー侵害及びこれらを誘発する言動――。

 基本的人権の尊重の基本原則をはじめ、憲法に照らした問題性、ハンセン病患者差別の教訓などに言及したうえで、政府・地方自治体に、新型コロナウイルス感染症に関する必要・正確な情報提供と十分な説明責任、偏見差別・人権侵害防止のための普及啓発・教育活動を積極的・継続的に講じることを求めた。

 そのうえで、弁護士・日弁連の立場について、こう述べて声明を締めくくっている。

 「また、弁護士をはじめ法曹関係者は、偏見差別の実態に直面したとき、法律相談をはじめあらゆる法的救済手段をもってその是正に向けた対応を行うとともに、それらの活動により偏見差別のない市民社会の構築に貢献する責務を有する」

 「当連合会は、新型コロナウイルス感染症に関わる偏見差別・人権侵害が見られる中、引き続き偏見差別を生み出さない社会を築くために努力する決意を表明する」

 人権擁護を使命とする専門家団体の長として、ふさわしい表現であり、言うべきことを言っている、という評価もあるだろうし、今、決意表明をしたこと自体は妥当といえるのかもしれない。ただ、一方で、やや酷な言い方かもしれないが、このいかにも弁護士の団体らしい切り口の、決意文をもって、果たして社会が彼らの活躍にどれほどの期待感を持つのか、そこにどんなイメージを持つのだろうか、ということを考えてしまう。

 とりもなおさず、それは「あらゆる法的救済手段」の成果が具体的にイメージできないと同時に、「責務」と「努力」の決意の結果にどれほど現実化をイメージしていいのかが、分からないからである。姿勢の社会的宣明としての、会長声明など、常にそういうものだ、と言われれば、そうかもしれないが。

 7月30日付け朝日新聞朝刊の「論壇時評」で、ジャーナリストの津田大介氏は、冒頭、識者の指摘を引用しながら、この「差別」という社会現象の根底にある、新自由主義の影について取り上げている。

 「伊藤(昌亮、社会学者・筆者注)は日本社会が1990年代以降、新自由主義的価値観に基づく行政、経済制度、司法制度の改革を進めた結果、リスク、自己責任、ガバナンス、コンプライアンスといった新しい語彙が広がったことに注目。当初は企業や法曹のあり方を規定するものだったそれらの語彙が、やがて我々一人ひとりの振る舞いを規定し、新自由主義的な思考を内面化させたと分析する」

 「コロナというリスクは基本的に自己責任で乗り越えられるべきだ。要請に従わず、コンプライアンスに違反している人間に対しては、それを告発し、厳罰を加えることによってガバナンスを維持しなければならない――」

 冒頭の、会長声明が列挙する「差別」が、ぴたっと一つの源流に辿りつくような思いになる。「感染者」の「感染」という結果も、県外ナンバーをはじめ、いわゆる「自粛警察」にとっての攻撃ターゲットの行動も、差別する側からすれば、ある意味、矛盾なく、「自己責任」論の徹底化であり、それに対する「差別」対象の無自覚を攻撃しているとみることができるからだ。

 「感染」はあたかも「自己責任」の自覚不足がもたらした、と。本人の感染自体は、その意味では「自業自得」で片付けられるが、それがあくまで「感染」症であり、蔓延のリスクがある以上、それでは済まず、それは他人事ではない自覚不足、心得違いの結果として攻撃対象となる。「自粛警察」も、「未然」という違いだけで、全く同じ発想で括れてしまう。

 つまり、そうみれば、今、私たちの社会で見せつけられている「差別」は、新自由主義的発想がもたらした、「自己責任」社会の悪しき深化の表れのようにとれるのである。

 津田氏の論稿が、司法制度改革に言及していることに、ある種、皮肉なものを感じてしまう。いま、コロナ禍の「差別」に立ち向かう決意を表明している日弁連も、この改革の旗振り役に回った。市民が自立的に選択でき、また、法曹がそれに十分にこたえられるような社会の構築がイメージ化される一方で、まさにこの「改革」の反対・慎重論の中では、新自由主義的な「自己責任」論の徹底化が、弱者切り捨てにつながる懸念も示され、弁護士をはじめ法曹に求められる本質的な役割との矛盾、あるいはなじまないとの指摘もなされていた。その批判を乗り越えた先に進んだのが、現在である。

 津田氏は、「我々は差別と直面すると道徳や倫理の問題として解決しようとする。だが、それは社会と深く固着しており、一朝一夕に解決することは不可能」とし、差別との闘いは一つではない、と締め括っている。日弁連会長の「決意」の先には、当然、法律実務家としての、「差別」に立ち向かう極めて現実的な「あらゆる法的救済手段」駆使の効果が想定されている。

 その効果に対する具体的なイメージも求められるが、同時に、結果的に新自由主義的「改革」の危険性を指摘するのではなく、旗を振る側に回った、その先にこの「差別」が生まれる社会が登場しているという、「自覚」もまた、どこかに求めたくなるのである。



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