私たちの中の「戦争絶対悪」「戦争完全放棄」の意識は、今、どのくらい定着し、その強度はどのくらい保たれているのだろうか。憲法9条が様々な形で取り上げられる度に、その根本にあるべきものの現在という問題にたどり着く。
自衛権、安全保障、国際協力、世界的な常識――。様々な要素が、現実的な課題として、その解釈に加味すべき、あるいは議論すべき事情として、必ず引き合いに出され、9条の解釈とともに、わが国が選択すべき未来の解が、その向こうにあるようにも言われてきた。
しかし、一方で、その時、「戦争絶対悪」「戦争完全放棄」の発想は、本当にフェアに取り上げられたのか。有り体にいえば、本当の意味で、前記事情によって、いわばそこに譲歩が生まれる妥当性が問われてきたのかが、疑わしい。そもそも戦争は、多くの場合、一方、または相互によって、「自衛」を掲げられていることは自明のことだし、安全保障の主張も同様だ。
国際協力や世界的な常識が語られるにしても、そもそも軍隊を保有し、戦争を放棄していない国のスタンスをわが国が範にできないのは当然であり、それが踏まえられているようにもみえない。そのことを踏まえて、別の協力を別の常識で考えるしかできないことを、表明しなければならないはずなのである。
そして、結局、そういう憲法9条の発想を、どこまでも貫けるかどうかは、結局、冒頭の「戦争絶対悪」「戦争完全放棄」に対する、われわれの意識にかかっているのであり、それが試されているということになるのである。
戦後80年の憲法記念日の朝日新聞の社説。タイトルには「この規範を改めて選び取る」とある。
「戦争放棄の現憲法は1928年のパリ不戦条約の精神を継ぎ、その規定は歴史に学んで人類が目指すところでもある。同じ流れにある国連憲章が大国の専横に揺らぐなか、日本も力ずくの世界に舞い戻ろうとしている」
「日本の防衛費は今や国内総生産(GDP)の2%に迫る。すでに十分な巨額だが、2027年度には世界でも五指に入る可能性がある。『備え』に際限がないことは軍拡の世界史に明らかで、妄信すれば専守防衛を掲げながら軍事大国と化してしまう」
「日本はどうか。平和主義を掲げる民主主義国家としてここまで歩んできた。『国民の不断の努力』(第12条)あってこそ保たれる。むき出しの権力にあって、その努力はますます重い意味を持つ」
ここまでの危機意識と国民の「努力」を言う朝日が、根本であるはずの9条が宣明している「戦争絶対悪」「戦争完全放棄」の意識の強度を、国民に問いかけるところが見つけられない。いま、あえてそう言わなければならないのは、ウクライナ戦争でのスタンスにどうしても思いがいくからだ。
朝日を含む日本の大手メディアは、日本の平和主義の立場から、侵略したロシアの「蛮行」を批判するが、一方で領土奪還のために、国民を動員して、まさに「自衛」の名のもとに戦争を継続するウクライナの立場に何も言わない。また、その点、明らかに9条を要する日本の立場とは違うことの注釈を付けずに、他の戦争継続を支援する国と肩を並べて、支援を表明する国に対しても、何も言わない。
つまり、これでは日本は他国の領土侵略に対して、「自衛」の名のもとに、国民を動員した、領土奪還戦争は憲法9条下でも許容する国であることを内外に表明するのと同じ意味を持ってしまう。そう考えたい勢力は、確かに日本の中にもあるだろうが、既に結論を導いているようにみえてしまう。「力ずくの世界」へ舞い戻ることを懸念している立場とは、矛盾しているようにしかみえない。
憲法9条からは、本来、一直線の「即時停戦」が導かれておかしくないが、それに対して、結局大手メディアも、前記したような前記9条の「戦争絶対悪」「戦争完全放棄」を貫かせなくする要素に傾斜し、「やめられない(やめてはならない)戦争」を認めていないか。
そして、一番の問題なのは、そのことによって国民もまた、憲法9条の立場を、多くの議論の頭越しに、そういうものとして既定してしまう、また、事実上、大手メディアがそういう方向にもっていっているということなのである。(「『止めてはならない戦争』という価値観」 「ウクライナ支援と憲法9条の立場」 「ウクライナ停戦への動きと日本国内の論調」)
「正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」
井伏鱒二が代表作「黒い雨」の中で書いたこの言葉こそ、「戦争絶対悪」につながる戦争体験者の偽らざる心情である。領土奪還、自衛という、国家の正義によって、失われてしまう国民の取り返しのつかない命。あくまで、その立場に立つことこそ、「やめてはならない戦争」など存在しない憲法9条の「戦争絶対悪」の思想であり、これを擁している国の国民のあるべき姿であっていい。