高市政権下での憲法改正への動きが、急激に取り沙汰されてきた。衆院選での自民党の歴史的大勝を受けて、高市早苗首相が改めてその意欲を示していることによる。会見で首相は、改憲へ駒を進めることを「挑戦」と表現し、改正案を発議し、「すこしでも早く」国民の賛否を問う環境作りに取り組む考えを示している。
しかし、憲法改正の要否以前に、この政権で動きを進めること自体に危険性があるといわなければならない。別の言い方をすれば、高市首相の政治的な姿勢は、その動きを進めるのに、むしろ不向きというべきであるからだ。もちろん、政治家が改憲への心情や信念や熱意を語るのは、自由かもしれない。それに賛同する国民がいても、もちろんおかしくない。
たが、憲法改正プロセスが現実に進められようとするならば、担保されなければならないのは、民主的プロセスであって、その質を担保する「熟議」にほかならない。この根本とも言えるものへの信頼が、果たして彼女に対して持てるであろうか。むしろ彼女の政治姿勢から見えてきているのは、その逆の不安材料だけではないか。
まずは、「白紙委任」的な解釈による熟議の軽視の懸念。首相は、この選挙で信任を得たからこそ、前記のように、発議と国民投票への環境整備を急ぐ姿勢を示しているのは明白だ。つまり、むしろあからさまに「白紙委任」された今が駒を進める好機としているような前のめりの姿勢である。
ところが、世論調査の結果を見ても、高市政権で国民か求める政策として憲法改正の優先順位は極めて低い。今月朝日新聞が行った世論調査での、高市首相に一番力を入れてほしい政策への回答は、「物価高対策」51%、「子育て・社会保障」 19%、「外交・防衛」13%、「外国人政策」9%と続く、「憲法改正」と答えたのは5%に止まっており、自民支持層でも全体と同じ5%、内閣支持層でも4%という結果だった。
改憲の必要性の賛否を問う調査では、賛成にもう少し高い数値が現れるが、少なくとも国民は、高市首相の前のめり姿勢とは裏腹に、急いでいないのである。もっと世論調査からは、むしろ生活が苦しい中で「それどころではない」という本音すら読み取れる。高市首相を支持する保守層に関心度が高いとされる「外国人政策」にしても憲法改正同様、首相に求める優先順位としては低いことも注目できる。
したがって、この現実と前記高市首相の前のめり姿勢を重ね合わせると、そこから何が導き出されるかも明白と言わなければならない。つまりは国民の声とそこに示されている苦境より、個人の心情や信念を優先させるようにとれる姿勢。期待のズレへの感性の欠如である。その姿勢こそが「熟議」が担保されなければならない憲法改正に臨むあり方として適格性を欠いている。
憲法96条の憲法改正手続きには、「国民の期待が高まっている」ことが発議条件になっているわけではない。国会議員の3分の2以上の賛成で法的には発議自体は有効である。しかし、国民が政権にまだ求めていないという現実があるとすれば、「政治的正統性」の問題であり、それを優先させることは、代議制民主主義の濫用とみなされるリスクが伴っている。
しかも先の選挙で、巨額の広告費投入による動画広告が、「高市旋風」を生み出した現実も指摘されている。中身に対する「熟議」ではなく、資金力にものを言わせたこの手法と戦略が、高市首相の前のめり改憲戦略に用いられないとも限らない。しかも、選挙戦を通して、対話を重視した姿勢とはお世辞にも言えない。そこで問われるのも、憲法改正プロセスに適した感性を高市首相が持っているのか、ということに尽きる。
もし、高市首相がこれらを百も承知で、国民の期待度を優先せず、機が熟しているとはいえない、数%しか国民が期待していない憲法改正を、どうしても急ぐとして譲らないとすれば、それはやはり彼女のための改憲といわれても仕方がない。保守政治家のアイデンティ、あるいはレガシー作り。そんなものが透けてみえた時、やはり、徹底的に国民の声に向き合い、「熟議」を担保して、憲法改正プロセスを進めるべき首相として、彼女は最も不向きな首相と思えてならないのである。