私は、S弁護士に民事裁判証拠資料を届けにいった後も、何度か同弁護士のもとを訪ね、今後の裁判の動向や気になったことを再確認するために、彼に質問を投げかけた。
民法715条の件で、雇用上の責任がある者が、被害者に対して支払い義務があることは認識していたが、刑事裁判中に被告人の母親と話し合いを持った時のことを思い出していた。「娘は多額の金の窃盗していない、お金は絶対払わない。うちには金がない」と、強気に言われたセリフが引っかかっていたのだ。自分の不安を払拭するために、「仮に裁判で勝利した場合、犯人が支払拒否した場合はどうなるのですか」と、S弁護士に尋ねた。
「民法715条でこちらは押すので、雇用上の責任は逃れられませんよ。仮に、犯人が払えないといっても、すべて社協が全面責任を負う形になりますから、彼らが逃げることは不可能です。勝利した場合の支払いの内訳は、加害者サイドの問題になりますから、こちらが心配する必要はないのですよ」
S弁護士は、固い表情で、そう答えた。
「ところで、裁判所に提出する文書と損害賠償請求額ができましたのでご確認していただけますか。相当大きい額になりましたよ」
訴状がどのようなものに仕上がったのかが気になっていたので、少し緊張した感じで拝見した。彼の顔が固い表情から一転して、少し紅潮したように見えた。
「こんな請求額になったのですか」
額を見て、私は思わず、そう言葉に出してしまうほど驚いた。その額は2000万円を超えていた。弁護士の顔をちらっと見ると、苦笑いなのか、作り笑いなのか、「ニヤリ」としたように見えた。
この数字は、相手に対しての心理戦術の一環なのかと思った。そもそも、原告が1人ではなく5人となったわけだから、額が膨らむのは当然であった。被害額700万をはじめ、4人の調査費用、父親の精神的苦痛、弁護士費用等が上乗せされていくと、このように見積もられるのかと、改めて考えさせられた。
調査費用についての計算は、それぞれが会社で働いている1時間単位の時給で計算しで算出したものだった。私をはじめ、兄、当時東京に在住していた姉の場合は、これに飛行機の往復代金も含まれていた。
私にとって、この調査費用が認められるかいなかも重要な戦いだと意識していた部分もあった。なぜなら、調査費用なんて通常認めるわけがないと周りから、冷ややかな意見を頂戴していたからだ。それでも、という気持ちがわれわれにはあった。この裁判を挑む強い覚悟の表れだった、と今でも思っている。この部分に対して、司法がどう判断するのか、そんな思いもあった。
刑事裁判で、犯人の銀行通帳をみれば明白な余罪が存在していたが、不本意にも「15万円」という結論が出ていた。これに対して、一市民が調査した記録は、どれくらい理解し、通用するのだろうか。ここもわれわれにとっては、気になるところだった。
弁護士事務所で、訴状を読みながら、この訴状が届いた時、ようやく彼らにわれわれの本気度が伝わるだろう浮かんできた。そんな思い巡らしている矢先、S弁護士から、思いがけない発言が飛び出したのだった。
「本来なら、請求額が多額だと着手金の額も変わるのですがね」
心なしか、S弁護士の声が小さくなったように感じた。一瞬、何が言いたいのか理解できず、私は「どういうことでしょうか」と聞き返した。S弁護士の表情は少し硬くなった。私も営業で外周りしているため、交渉場で金額を吊り上げることは、何とも言えないほど気まずさがあることは、それなりに理解していた。
最初に、それをなぜ言ってくれないんですかと言いたいのは、山々だったが、私は、そこはぐっと抑え、深呼吸をした。私の表情も硬いものになっていたはずだった。
「今回は、これでいいですよ」
少し間があって、弁護士はそう言った。私ははっきりとは理解できなかったが、営業での場数を踏んでいる分、なんとなくこの空気の流れが読めてきた。
「相手からとれた暁に、とれた額で調整するということでよろしいでしょうか」
私がそう切り返すと、S弁護士は、理解したような感じだった。それは、なんとも言い難い、営業的な会話のように思えた。いずれ足りないものは埋める――と。こんなやりとりでいいのだろうかという気もあったが、ここは彼の意向を精いっぱいくむ、その場しのぎの返答をしたと思う。のちに兄には、この「調整」ということが理解できず、どういうことだ、と質された。今にしてみれば、やはり、とにかく、ここまできたらば、S弁護士になんとしてでも頑張ってほしい、という気持ちが、こんな彼の顔色を見たあいまいな対応につながってしまったように思える。