まだ、裁判所から、公式の手続きの書類は届いてないものの、相手側からの控訴という、現実を覚悟しなければいけない状況になった。卑劣な行動を起こしながら、結果的に私たち家族を法廷へ導いた社協サイドが、今度はどのような形で、どのような言い分で控訴をしかけてくるのだろうか。そして、彼らがどうやら得意にしているらしい、法廷外の根回しで、こちらにどんな揺さぶりをかけてくるのだろうか――その時の兄と私は、そんなことばかりを、戦々恐々たる気持ちで考えていた。
正直、法廷外での「場外乱闘」による急展開に、私たちは手を焼いていた。私たちでなく、これを知った周囲も、またこの事態を驚いた表情でみていたように思う。私たちは、聞こえてくる暗躍といいたくなるような、彼らの行動に心底うんざりしていたが、これに立ち向かうことも含めて、私たちの闘いなのだ、ということを自らに言い聞かせるようになっていた。
もし、本人訴訟でなければ、こういう時、弁護士は何といい、どんな助け舟を出してくれたのだろうか。やはり、そんなことも頭を過った。
とにかく、まだ、高裁から手続きの書類が届いてない。時間は少々ある。それを考慮しながら、どのような形で駒を進めればよいか、次の一手を思案せざるを得なかった。相手は、一審と同じ弁護士がつくだろうと考えられた。しかし、不思議なことに、相手方弁護士に対しては、前に感じたような切迫した恐怖は、既に私の中では取り除かれていた。ただ、彼らがどんな言い分で、一審判断を覆しにかかってくるのか、そのことだけが気になっていた。
むしろ、厄介な相手は、高裁の裁判官かもしれないという警戒感を、私も兄も強めいていた。それだけ私たちは、裁判においてはどんな裁判官がつくか、そのことがその行方を左右するということを、既にこの時点で学習していたのかもしれない。たとえ弁護士がいない本人訴訟でも、それによって勝利は見える、という確信のようなものがあったのだろうか。それを今、改めて思うと、少々不思議な感じもしなくはない。
高裁について調べていくと、裁判官は3人。ここに果たしてどんなタイプの裁判官がくるのだろうか。例えば、最初に出くわしたような横柄な態度の裁判官が加わっていたならば、どういう展開になるのだろうか。本人訴訟を嫌うタイプの裁判官もいると聞くが、3人ともみな、そういう裁判官だったならば、私たちの裁判はどうなるのだろうか。担当裁判官がだれになるか、それですべて決まるといっても過言ではない。場合によっては、これまで積み上げてきたものが一瞬にして、壊されることもあるかもしれない――。そんなことを思う度に、まさかそんな運不運みたいなことで司法の結論が変わってくるなど、この事件にかかわるまで思いもよらなかった自分に気がつかされるのだ。
まだ見ぬ裁判官に対しても対策を講じなければならない。そう自分に言い聞かせていたが、では何ができるのか、どんな用意が今できるのかと考えても、簡単には答えは出て来なかった。