司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 

 弁護士を付けない裁判が具体的にどんなものになるのか。本人訴訟を決断した私たちも、当時、それを十分理解していたわけではない。それどころかそれが具体的にそれがどういうものなのか、どういうことを余儀なくされ、また、場合よって、どういう不利益を被りかねないのかも、よく分からないというのが現実だった。

 

 ただ、プロはプロ。それを欠いた状態とそうでない状態が同じであるわけがないし、私たちがどんなに強がってみたところでプロと同じにできるわけがない、という自覚はもちろんあった。

 

 でも、その一方で、私たちのなかには、私たちは間違っていない、という確信があった。そして、あのまま弁護士を付けた裁判を継続でないという判断も、それに基づく本人訴訟の決断も、確固たる理由がある、と思っていた。それは、どこかで私たちだけではなく、こうした境遇に立たされた市民は、必ずやいるはず、という意識にも、どこかつながっていたように思う。

 

 その意味で、私たちは裁判所という存在にいよいよ期待するしかなかった。この事件について私たちの主張をくんだ最終結論を出してくることが第一だが、それと同時に、この訴訟で置かれた私たちの境遇をどこまで裁判所がくんでくれ、裁判を進めてくれるのか。変な言い方になるが、司法の度量に期待するような気持ちだった。

 

 この裁判が始まる前、裁判官に注意事項として、私たちはプロの弁護士ではないため、直接、加害者や相手方の弁護士には質問はできないとの説明を受けていた。質問する場合、あるいは裁判が進行中に、「意義有り」などを申し出を行う際は、必ず裁判官を通すようにとのことだった。このことも私たちは当初知らなかった。「これが本人訴訟のやり方か」と、少し恥ずかしい気持ちになりながら、その忠告を聞いた。

 

 この裁判を通じ、父親の隣に座ることができたのは幸いだったが、やはり一番気になっていたのは、実は父親のことだった。以前は弁護士が、父の代わりに代弁してくれるという部分で安心感があったが、これからはそれがない。つまり、被害者である父親も裁判という土俵に立たせ、プロの弁護人と渡り合わせることは避けられない。

 

 父は裁判官や被告側の弁護士の質問に的確に、そして有効な形でこたえられるだろうか。おそらく、被告側弁護士は、彼らも仕事、依頼人から「潰せ」というくらいの指示は受けているだろうから、トコトンまで攻めてくることが想定される。弱い人間への攻撃は鉄則だろうから――。そんな不安がうずまいていた。

 

 これは、我々にとって「吉」と出るか「凶」と出るかの賭けのようでもあった。逆にいうと、法廷に被害者である杖をついた老人が立ち、そして、自分の言葉で、当時の苦しみや葛藤を伝えられたら、あるいはその迫力で伝わるものがあるかもしれない、と。当然のことながら、どんなに私たち兄弟が説明するより説得力があるはずなのだから。

 

 しかし、この間、何度か法廷での想定問答を自宅で練習していたが、素人目に見ても、正直、父が自分の言葉として話すのは難しかった。なぜなら、被害者である自分が、なぜこんなことまでしないといけないのか、といった気持ちが父のなかに強くあったからだった。

 

 この父親の心情を含めて、裁判所はどんな対応をしてくれるのか。そこが気になっていた。



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