私は、東京に戻り、膨大な資料に一枚一枚丁寧に目を通し、作業を開始した。犯人逮捕後の私たちとの話し合いで、歯切れが悪かった社会福祉協議会関係者の様子を思い出しながら、彼らが過去にどのような形で調査を行っていたのかを、サービス担当者会議議事録に目を通しながら検証してみた。
結論からいえば、この事件に関して、全く問題視していた形跡はなかった。すべては、「老人の物忘れ」として片付け、何の対策も講じていなかったのだ。さらに、責任を老人に転化する方向で、事件の可能性を認識していながら、隠ぺいを画策した可能性まで読み取れた。
1週間後、社協から、私が出した「宿題」である反省文が、私の元に届いた。それは、一般的に当たり障りのない、謝罪文だった。むしろ、議事録から見えてくる彼らの行動を比較すると、謝罪そのものも何を謝罪しているのかが不透明ばかりか、この件の調査について何の努力もしなかったことについて、「ヘルパーが泥棒するなんて考えられなかった」で済ませようとする、必死に責任を回避しようとする姿だけが透けて見えてきたのだった。
逮捕から2ヵ月後、刑事裁判確定の連絡が地元に住む姉から届いた。第1回公判は、2004年5月19日に決まった。
ようやく刑事裁判かと、なんとなく一段落つけそうな気持ちになったが、この裁判で気がかりなのが「争点」だった。当然、これまでの経緯からして、この裁判のなかで社会福祉協議会がなんらかの監督責任が問われるのではないか、と考えていたのだ。だが、それは違っていた。早速、地元警察署の担当に連絡したが、やはり、刑事裁判としては、窃盗事件のみが取り扱われるという返答だった。
私たちは、正直、この刑事裁判に大きな期待を持っていた。実に1年10ヵ月にわたって続いた窃盗事件である。しかも、介護という職を利用し、合法的に人の家に入り込み、仕事にかこつけて、助けるべき老人から堂々と金を盗み、何食わぬ顔をしてきた上に、給料をもらい続けていた。このような卑劣かつ外道な行為が許されるわけがないと、私たちは信じていたのである。
司法は、この事件をどのような形で扱うのか。老人大国になる日本の将来を考えれば、誰もが介護を受ける立場となり得、同時に、こうした事件の被害者にもなり得る。そんな思いから、今回の事件は、普通の窃盗事件とは違うと、私には思えた。実行した犯人はもちろんのこと、介護に携わる人たちへ処罰という形での警鐘を鳴らしたいという思いがあったのである。
5月19日、第1回公判。はじめての刑事裁判傍聴日である。私は、勤務先に事件の詳細を話し、この公判には出席することを決め、故郷に帰った。当日、私は、朝早くから、地元地裁に行き、事件の詳細を聞きこむため、担当検事を探し回った。
しかし、担当検事は、なかなか見つからない。宮牛刑事から名前は聞いていたので、その名前を頼りに、まるで飛び込み営業のように、庁内を「○○裁判の担当の矢吹副検事(仮名)いらっいますか?どなたかご存知ですか」などと、探し回ったが、どうしてもつかまらない。
探すのに疲れた私は、長い椅子に腰を下ろして座っていた。すると、背広にふけがついた、ぼさぼさの髪の大きなクロブチメガネのおじさんが、ひょこひょこ歩いてきた。私は、ピンときた。もしかしたら、この人が矢吹副検事かもしれないと。
思い切って、私はその人に名前を聞いた。「あの、矢吹副検事さんですか?」と、尋ねると、即答で「はい」と帰ってきた。
「君が、私を探していたのかね」
「はい、そうです。この度の裁判の行方が知りたい一心で、東京から、第2回公判を傍聴するために帰ってきました」
すると、矢吹副検事は、小声になって、私にこう言ったのだった。
「社協だよ、社協を訴えなさい」
驚く私に、彼はこう続けた。
「社協がもっとも悪いよ、3回もサービス担当者会議ひらいといて、何の調査もしなく犯人を野放しにしてるんだから」
私も社協が悪いのは、十分承知していたが、まさか、矢吹副検事の口からそれが真っ先に出てくるとは想像もしてなかった。
しかし、社協の怠慢は明白としながら、その責任追及は難しい、という話だった。なぜ、追及できないのか。その理由として、「上からそこまでしなくても」という話が出たことを矢吹副検事はほのめかしていた。
とにかく、矢吹副検事は、「社協は責任からのがれられないよ。民事で起訴しなさい」と、強く言っていた。「第3回公判は出席しなさい」と言い残して、彼はその場を去った。
刑事さんも、最後は、「民事で」という言葉が決まり文句だった。社協を相手にすることの大きな壁と、刑事裁判の限界を感じながら、とにかく戦況を見守るしかなかった。