裁判外の状況が悪化したため、兄と今後について相談をする中、兄は、このままでは、拉致があかないので、現在のニューヨークの住居を引き払い、裁判と両親の面倒に専念しょうと考えていると、私に打ち明けてきた。流石に、この言葉を耳にしたときは、私は驚き、「この裁判のために? 冷静になって考えてほしい」と言った。
確かに、兄が帰国してくれるのであれば、現地での調査や、 裁判外での現場で、行政側をけん制しながら、相手の様子をみることに期待はできる。しかし、一方で、兄の海外で培ったスキルや積み上げてきたキャリアなどが無駄にならないかが、気になった。
その後も、何度か話し合いったが、兄の覚悟は揺るぐことはなかった。兄の気持ちを感じとった瞬間、私は内心、安堵する気持ちと、寂しい気持ちが交錯する、複雑な思いにかられた。この戦況を打開するためには、絶対的に兄の力が必要不可欠、ある意味、兄が帰国してくれたなら、もしかしたら、この裁判を早めに終結してくれるかもしれないと思えた。大げさかもしれないが、我が家にとっては、兄がニューヨークから帰国することは、まさに「鬼に金棒」だった。それだけ、兄の存在は、大きかった。
私は、近々に帰国する兄の帰国準備を手伝うために、急遽、ニューヨークへ向かうことに決め、 会社に、都合をつけ3日ほど有給休暇をとった。今振り返ると、まさか、この介護ヘルパー窃盗事件が長引くことにより、兄が緊急帰国を決断するとは考えてもみない結末になった。ある意味、この日本への永久帰国は、兄の人生設計を狂わすものだったといっても過言ではなかった。
2月下旬頃、ニューヨークに到着。JFKに到着すると、イエローキャブに乗車し、兄の住むクィーンズ・アストリアへ向った。懐かしい光景だった。久しぶりのニューヨークに興奮していたのか、時差ボケの疲れもなく、すぐに荷造りの作業に取り掛かれた。流石に十数年という月日の在住ともなると、荷物が多く、どれを捨てどれを持ち帰るかの仕分け作業で時間をかなりとられた。大方、物を捨てる方向で進行して行った。
手伝っている最中、兄がせっかくニューヨークに来たのだから、どこかにでかけたらどうだといってくれた。私は、ありがたくこの兄の言葉に従った。真冬のニューヨークは肩や腰が痛くなるほど寒かった。そんな寒さとは裏腹に、摩天楼の、そびえ立つビルのネオンやド派手な演出した店の看板の光、そしてその光の下で、エネルギッシュなパフォーマンスしている姿は、どれも素晴らしく感じた。
それらを目にしながら、私は、感傷的になったのを覚えている。なぜ、兄がここから離れないといけないのだろうか――。そんな悔しい思いが胸の内から熱くこみ上げてきた。
そう思いながら、夜のマンハッタンを散歩していると、奇抜な格好でふらつきながら歩いている奴らが前方から歩いてきた。よく見ると、私が滞在していたころ知り合った旧友たちだった。彼らは、昔と変わらず、モヒカンヘアースタイルで、そこらでは名の通ったミュージシャンたちだった。
彼らと軽い立ち話を交わしたつもりだったが、アメリカ社会における人権に関する問題や政治政策などが話題にのぼった。久々の連中との会話に、今、私が直面している裁判の件が、ほんの少しだが、被さった。私は、最後に、彼らに、「社会に対する不満があるなら、自分の力で勝ち取るしか道はねぇよ」と言い、私はその場を去った。彼らも納得したように、うなずいていた。彼らに対して吐いた言葉は、今思えば、自分のケツをたたいているようなもんだった。
夜のマンハッタンは寝ることなく、ギラギラと光を発していた。そんな光景を見ながら、私は、日本で待っている、ドロドロとした裁判から解放された気分になっていた。