司法修習生の給費制は、どうやら今度こそ廃止が避けられないらしい。フォーラムの議論を見る限り、給費制は、まさに息の根を止められた、という表現になるのだろう。
昨年は、徳俵に引っかかったような土壇場の延期だった。2度目の奇跡はあるまい。貸与制の流れは、すでに何年も前から既定事実だったということだろうから、もはや引き返すことはできまい。
こういう事態を目の当たりにして、個人的には、昔に司法試験に受かっておいて良かった、というのが正直なところだ。ロースクールで借金を重ねた上に、さらにまた負債が増えていくというのがどういうことなのか、実感はないが、もし、今、私が大学生だったら、たぶん法曹を志すことなど、思いもよらなかっただろう。
給費制維持に関して、弁護士会は、四面楚歌の状況にありながら、必死に闘ってきた。フォーラムの議事録を見ると、弁護士サイドの発言は、ほとんど、相手にもされていなかったように見える。
実際、議事録からは、弁護士会を取り巻く非常に冷めた雰囲気が浮き出てくるようだ。多くの委員は、端から、弁護士に対して、既得権益に固執し、国民の血税を吸い取ろうとする輩、とでも言わんばかりの悪感情をもって臨んでいるのではないか、そんな感覚まで持たざるを得ないような冷ややかな気配が漂っている。
多分、事業仕分けに引き出された官僚はこういう気分を嫌というほど味わったのだろう。事業仕分けは、一時、大手マスコミを中心に、民主主義の勝利を象徴するかのように大いに持ち上げられた。貸与制も、同じ文脈で、大方のマスコミからは、好意的に報じられているようだ。
しかし、つくづく思うのだが、法化社会という理念は、一体、どこに行ってしまったのだろうか。法の支配と多数決の支配は、究極的に、相容れない。物事を法に則って解決しようとすれば、法の解釈と適用を担う人の育成が不可避だ。
司法試験合格者増の議論は、これが出発点だった。しかし、貸与制が定着すれば、次に持ち上がるのは、間違いなく分離修習の議論だろう。今でも、国は、逆肩たたきをくぐり抜けてきた優秀な新人判事、新人検事に、予算を背景とした手厚い教育を施し、優秀な人材を集約しつつある。
裁判官と検察官は、国が責任を持って育てるが、弁護士は、勝手に育って、自分で稼げという社会は、要は、役人が法を担う社会、ということにならないか。
国民に身近な司法を目指してみたら、これまで以上に強力な司法スーパーエリート官僚が蒸留されてきた、というわけだ。それが司法改革の終着点だというなら、国民は壮大な夢に惑わされていたというべきなのではないか。
フォーラムでは、特に、貸与制の結論を急がず、制度全体の議論の中で考えてほしいという弁護士サイドの意見は、鼻で笑われて終わってしまったようだが、実際に、貸与制の導入は、司法を国民から遠ざけるダイナミズムをはらんでいると思わざるを得ない。
我々は、またしても、危険な一歩を踏み出してしまったようだ。