私は、普段、司法改革への恨み辛みを口にすることが多いのだが、もともと、司法改革の理念にすべて反対というわけではない。
特に、刑事司法への市民参加には、大いに期待をしていた。刑事裁判に市民が参加すること自体には、大きな意義があると、今でも考えている。
本気で無罪を争う事件を担当したことがある弁護士なら、おそらく誰もが、キャリア裁判官の有罪バイアスに歯がみをさせられた経験があるだろう。
検事を辞め、弁護人として初めて刑事裁判の法廷に臨んだとき、法廷の雰囲気が180度変わった気がして、何だか、縮みあがってしまったことを、今でもよく覚えている。
検事のときは、よほど下手を打たなければ、裁判所の助け船があるだろうという、随分身勝手な安心感があったのだが、弁護人席に座った途端、風向きは全く変わっていた。
とにかく、裁判官の目が冷たいのだ。その後もしばしば、本気で争っているのに、基本的に何をやってもなかなか見向きされないという不条理を、肌で感じることが続いた。
何度思い出しても、怒りで腹の底が熱くなるような思いをさせられるような扱いもされた。検察と裁判所、所詮は役人の連合ではないかと、投げやりになりそうになることもあった。
素人として市民が裁判に参加することが、有罪製造システムとして閉塞してしまった刑事司法を解体する突破口となるのではないか、私自身の中にも、陪審制を念頭に置いた市民参加に対する期待は大きかったのだ。
しかし、いま、改めて裁判員の実績を見ると、「市民」というのは、やはり怖い存在だと思わざるを得ない。
私も含め、弁護士が市民に対して期待していたのは、刑事被告人として生の権力に向かい合わざるをえない状況に陥った同じ市民の側に立って、権力の暴走を監視する存在としての役割だった。
もちろん、裁判員制度の下でも、こうした意味での市民の存在意義が、一定程度であるが、発揮されつつある。そのことは素直に認めるべきだろう。保釈率がわずかずつとはいえ上昇し、可視化の必要性が市民の側からも叫ばれるに至っている。少なくとも、市民参加が、閉塞した刑事裁判制度に一石を投じ、いまもその波紋が広がっていることは否定できないだろう。
他方で、市民には、激情に駆られ、少数者に敵対する存在となる可能性が秘められている。ここでナチスドイツの例を挙げるのはあまりに極端に過ぎるだろうが、「市民感覚」の名の下に、法の支配よりも、多数派としての市民の感情が優先されていくことを、私は危惧している。
なにしろ、マスコミ報道にあおられ、弁護方針が気に入らないといって、懲戒請求を乱発する市民がいることも確かな事実だ。刑事裁判が、国お墨付きの私刑の場になってしまうリスクもないとはいえない。
市民という存在の二面性を見据えながら、では、どうすればよりよい刑事裁判が実現できるのか。最近の私は、漠然と、裁判員や陪審の方向よりも、アメリカ流の法曹一元を実現する方がよいのではないかと思ったりするのだが、正直なところ、これぞという解答は思いつかない。英米の陪審制にも問題はあろう。特効薬などないのだ。
そう思うと、司法改革の理念としてあげられた刑事司法への市民参加という絵図も、それに賛同した弁護士も、あまりにも無邪気だった。結局、闘いは続くのだ。