神奈川県の横浜で開業する一地方弁護士が、日々の生活から伝える、司法改革の「肌触り」。
1964年2月21日生まれ。1987年早稲田大法学部卒。1993年検事任官(東京地方検察庁)。1994年 退官。同年弁護士登録(横浜弁護士会)。1999年早稲田大大学院法学研究科修了(公法修士)。2001年木村・林・工藤法律事務所(現・横浜ユーリス事務所)設立。2008年横浜弁護士会副会長。そのほか横浜国立大学非常勤講師、交通行政市民オンブズマン代表などを務める。著書に「科学的交通事故調査」(共著・日本評論社)など。
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法曹養成制度検討会議は、司法試験の年間合格者を3000人まで増やすとした政府目標の撤廃を求める座長私案を公表した。今後、国民からの意見募集を行った上で6月末にも改革案を取りまとめる予定だという。
ようやく、この間の試みが壮大な誤りであったことが公に宣明されたものと見ていいだろう。ここまでくるのに10年もの歳月が必要だった。甘い需要見込みをもとに「改革」に突き進み、動き出したが最後、誤りを認めて責任を取る者が現れず、悪い方へ悪い方へと落ちていく。この国の行政にとってあまりにも見慣れた光景が、またここでも繰り返されたわけだ。この間、失われたものはあまりにも大きかった。
何より悔やまれるのは、この10年で、我々の職業的プライドがずたずたにされてしまったことだ。かつての法曹は、年に1回の難関試験に文字どおり命がけで取り組み、それを勝ち抜いてきたことに、少なからぬプライドを持って職務にあたってきた。
鼻持ちならないエリート意識を持つ者もあっただろうと思うが、それよりも、むしろ、社会に選ばれた者として、何らかの形で社会に奉仕をしなければならないという意識を常に抱きながら仕事に臨んでいた者の方が多数だったように思う。現在の司法試験に、このような思い入れを持つ人は少ないだろう。
私が合格した平成2年は、司法試験の受験者が2万4000人、ここから択一式試験で約4000人に絞られ、これが論文試験に臨む。論文では、合格者が600人ほどに絞り込まれ、その後の口述試験でおよそ100人が落とされる。当時、成績順位の発表はなかったが、論文試験で落ちた者のうち、希望者には、自身の成績がAからGまでの7段階で評価されて送られてきていた。このうち、Aクラスは全体で1000人、合格者を除くとA評価をもらう人がおよそ400人という計算になり、あとはBからFまでが500人ずつ、残りはGクラスだ。この区分けで行くと、現在の司法試験は、我々の時代のCクラスまでが合格できるレベル、ということになる。論文受験者の約半数だ。
論文の添削をやってみるとよく分かるが、Cクラスレベルの論文は、正直なところ、お話にならないようなレベルだ。そもそも日本語になっていないようなものや時間切れで完成していないようなものを除くと、一応競争の俎上に載ってくるのが大体全体の4分の3くらいという感じであって、多少なりとも勉強をしているなあと思える論文は、やはり、全体の2割程度だったという印象が残っている。
実際、「論文で勝負しているのは1000人しかいない」というようなことがよく囁かれていた。受験生の実感としてもそんな感じを持っていた人が多いだろう。上から半分程度のレベルにいる論文は、とても実務家として活躍ができるレベルではなかったのだ。
逆に、上位1割の論文を書く人は、多少のぶれはあっても、大体どの科目も、それなりの論文を書いていたように思う。法律の勉強は、ある一定のレベルまで達すると、科目の枠を超えて、法的なものの見方、リーガルセンスが身につくのだなあと感心したことを覚えている。
法科大学院の導入時、点から線の教育というようなことがよくいわれていたが、こうしてふり返ってみると、かつての司法試験が「点」の一発試験だったなどとは言い切れないのではないだろうか。一定のリーガルセンスを身につけるためには、血のにじむような日々の努力が不可欠であり、見る人が見れば、1通の論文でも、著者がリーガルセンスを身につけているか、それだけの努力を重ねてきたか、すぐに分かるのだ。それで十分ではないか。
高い学費を強いて却って法曹の門戸を狭めた現在の法科大学院は、明らかに失敗作だといわざるを得ない。