■工藤昇
神奈川県の横浜で開業する一地方弁護士が、日々の生活から伝える、司法改革の「肌触り」。
1964年2月21日生まれ。1987年早稲田大法学部卒。1993年検事任官(東京地方検察庁)。1994年 退官。同年弁護士登録(横浜弁護士会)。1999年早稲田大大学院法学研究科修了(公法修士)。2001年木村・林・工藤法律事務所(現・横浜ユーリス事務所)設立。2008年横浜弁護士会副会長。そのほか横浜国立大学非常勤講師、交通行政市民オンブズマン代表などを務める。著書に「科学的交通事故調査」(共著・日本評論社)など。
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「遠隔ウィルスなりすまし事件」の「真犯人」が逮捕されたという。
真偽は定かでないし、えん罪の疑いも囁かれているようだが、それはそれとして、この事件、刑事裁判の有り様を根底から覆すような挑戦的な性格を持っているようだ。これまで、刑事裁判は、捜査側も弁護側も、少しでも客観証拠を拾い集めて互いの主張を補強する、ということを主な目的として活動することが多かった。ところが、この事件は、ことネット犯罪に関していえば、それを軸にして主張を構成できるような客観的で確実な証拠などあり得ないのだという、実に救いのない事実を突きつけている。
捜査側も大変だろうが、弁護する方も、どこに目標を置いて弁護活動をすればいいのか、非常に難しい。果たして、この種の事件に刑事裁判自体が成り立つものなのか、えらく視界の悪い、捉えようのないやっかいな事件が起きてきたものだと思う。
それにつけても、この事件を巡る報道機関のはしゃぎぶりはどうだろう。
ここ数日、この事件の報道を目にしない日はないほどだ。しかも、その内容は、被疑者が猫カフェで猫と戯れていたなどという、どう考えても報道価値などない、単なるのぞき見趣味というほかない、下劣なものがまかり通っている。
一体、この国のマスコミはどうしてしまったのか、集団ヒステリーかと疑わざるを得ないほど、暴走が著しい。こうしたマスコミの有様を目にすると、やはり、この国のマスコミは、結局、警察・検察が大好きなのだろうな、と思わざるを得ない。報道(こんなものを「報道」と言っていいなら、だが)の根本的な姿勢が、あたかも、誤認逮捕で地に落ちた警察の威信回復を、何とかして後押ししようとしているかのようではないか。
報道された映像の中には、明らかに、逮捕前であるにもかかわらず、プレスが被疑者を追いかけ回し、そのプライバシーを暴いた様子が映されたものもあった。明らかに、警察側が、逮捕前に情報をリークしているのだ。
私は、かねがね、この手のリークは、国家公務員法や地方公務員法の守秘義務違反になるのではないかと思っている。以前、警察官の起こした事件の刑事弁護を担当した際、やはり、この手の逮捕前リークがされたことがあって、真剣に、被疑者不詳で地方公務員法違反による刑事告訴を考えたことがある。被疑者の意向で、最終的には思いとどまったのだが、こんな、警察とマスコミの無法を野放しにしていては、法治国家の名が泣くだろう。
この事件は、司法の無力と警察マスコミ連合の恐ろしさを浮き彫りにしつつある。事件の背景にあるこの国のいびつな構造に、国民が目を向けるきっかけになってくれればいいのだが。