すったもんだの末、ようやく、新日弁連会長が決まった。選挙というのは、こういうものなのかもしれないが、それにしても、後味が悪い。個人票と単位会票のねじれが、今回の選挙で、改めて鮮明になった。地方が、いかに、弁護士増員に悲鳴を上げているか、司法改革にうんざりしているか、目の当たりにする思いだ。
かつては、弁護士増員論の根拠として、地方に十分な数の弁護士がいない、ということが、よく挙げられていた。地方では、弁護士がすべき仕事を司法書士がやっている、ひどいところでは事件屋がのさばっている、というようなことが盛んに喧伝され、だから弁護士を増やさないとだめなんだ、と言われていた。
実際、そういうことはあったのかもしれないが、この10年余で、地方の弁護士不足と言われていたものが、実際には、それほど大した規模のものではなかった、ということがはっきりしてきた。確かに不足はしていたが、こんなに増やさなければならないようなものではなかった、ということだ。要するに、きちんとしたデータに裏付けられた議論ではなく、ちょっとしたフィーリングで大改革をやらかしてしまったということなのだろう。
修習生のとき、弁護実務修習の一環として、バスで弁護士ゼロの地域に連れて行かれ、地元の方の法律相談に立ち会う、ということを体験した。もちろん、相談自体は弁護士がやり、修習生はそれを脇で見ている、というのが原則だったはずだが、当時はまだおおらかな時代だったので、実際には、修習生がかなりの部分、質問もアドバイスも自分でやらせてもらい、弁護士はときどきコメントを入れる、というような形で、事実上、修習生が法律相談に当たっていたようなものだった。
それはそれで貴重な経験ではあったが、何しろ、農村地帯で、事件らしい事件などありそうにない場所だったせいか、実際に寄せられた相談は、長男のお嫁さんとうまくいかないんだが、どうしたらいいか、というような、法律相談というよりは、人生相談の方が大半だった。風光明媚な、食べ物のおいしい、いい街だったのだが、さすがにここで弁護士をやるのは無理だよなあと、同期と話したことを覚えている。
20年以上前の話だが、その後、この国の地方は疲弊の一途をたどっていて、地方の法的需要が劇的に増えているとは、とても思えない。こういう場所では、弁護士が1人、せいぜい2人もいれば、もう、パイはない。田舎で身近に弁護士が増えたからといって、人生相談が弁護士の仕事に結びつくことはないのだ。
法的ニーズをユーザーサイドの視点から定めるというなら、ゼロかワンかというような数だけを取り上げるのではなく、地方に実際どういう法的需要があるのか、その中身を検証しなければならなかったのだろう。
緻密な需要調査をすっ飛ばして、感覚的に弁護士を激増してしまって、もはや後に引くこともできない。弁護士界にとって、地方の疲弊、破壊のプロセスは、まだ始まったばかりなのかもしれない。