司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 
 もう鬼籍には入られてずいぶん経つが、私のボス弁は横須賀の出身者で、イソ弁を経験することもなく、修習終了後、横須賀市内に事務所を構えた。ボスは20期代の半ばだ。当時でも、都市部では、こうした今で言うソク独は珍しかったようだが、こと横須賀に関して言えば、むしろそちらの方が普通だったようだ。

 何しろ、横須賀では、その後、45期がボスの事務所に入ったのが10数年ぶりのイソ弁だ。横須賀に限らず、小規模な支部や地方単位会では、ソク独の方が一般的だったのかもしれない。

 この45期の弁護士を迎える何年も前から、ボスは、修習生の求人を出し、ずいぶん事務所訪問にも来てもらったらしいが、いっこうにイソ弁は来なかった。初年度の報酬は都内や横浜市内の事務所に比べて破格だったし、個人事件は完全自由、住宅手当まで出すという、今では考えられないような大盤振る舞いだが、それでも、横須賀に来ようというイソ弁はいなかったのだ。弁護士過疎の一端といえるだろう。

 ボス弁は「家一軒飲み干した」というくらい、毎晩の豪勇を続けていた人で、地元のネットワークは広く、事件の依頼は引きも切らない状態だった。何年もイソ弁は来ない一方、仕事はあふれるばかりに増え続ける。

 困り果てたボス弁が取った戦略が、書記官や検察事務官のOBを事務員として採用するということだった。定年退職した書記官や事務官を雇い、執行などの手配はもちろん、準備書面や最終弁論の起案も任せて、何とか事件を回していたようだ。

 私が入所した時点では、検察事務官OBが1人、地裁の書記官OBが2人、家裁の書記官OBが1人在籍していて、事務所内に「民事部」「家事部」「刑事部」があった。事務所の陣容は、最盛期で、30人を超えていた(このうち弁護士は、最大で7人を数えた)。弁護士過疎地で、よくもまあ、そんな大規模事務所を作ったものだと思うが、横須賀では、弁護士の数こそ当時の1.5倍ほどにはなっているものの、事務所数は今もそれほど変わっていない。

 そう考えると、まだ、どこかに需要はあるように思えなくもない。忙しくててんてこ舞いだった日々を見ているだけに、往事の様子を思い起こすと、賑やかな夢を見ていたような気分になるが、今でも、やりようによっては、過疎地でも、行列ができる法律事務所が可能なのだろうか。



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