司法ウオッチ<開かれた司法と市民のための言論サイト>

 坂本堤弁護士は、まだ、私が司法試験の受験生だった平成元年11月、家族とともに殺された。それから20年が経つ。一連のオウム裁判も、死刑判決がすべて確定し、坂本弁護士一家殺害事件も、手続き上は一応の決着を見た。20年の歳月を経て、坂本先生が、自らと家族の命を賭した職業の現状を見たら、いったい何と思われるのだろうか。

 卑近な話になるが、坂本先生は、おそらく、あまりお金は持っていなかったはずだ。以前、知り合いの不動産業者が、雑談の中で、坂本先生の自宅だったアパートを見てきたのだ、と話をしていた。

 この業者が、しみじみと、「弁護士先生のご自宅というので、それなりのものだと思っていたのですが、なんというか、安っぽいアパートだったんですよね」と言っていたのを思い出す。横浜市の中でも比較的庶民的な地域にあったこのアパートは、実際、安っぽい、ごく普通のアパートだった。坂本先生の暮らしは、ごくささやかなもので、まさに庶民の生活だった。

 坂本先生の所属していた事務所は、県内でも指折りの歴史のある合同系の事務所だ。合同系の例に漏れず、給料のもらえる時期はごく限られていて、すぐに経費の納入を求められるようになる。

 大きな事務所なので、事務所宛に事件の相談や依頼があり、それを所属弁護士が分け合って分担していくため、全く収入が無くなるということはないはずだが、それでも、駆け出しの弁護士にとって、厳しい環境だったはずだ。

 特に、この事務所は、多くの弁護士が敬遠するような、全くお金にならない事件も、リスクの大きな事件も、率先して引き受けるポリシーを持っていた。私の同期など、市役所の法律相談で、なかなか難しくて受け手がいないだろうと思うような案件が持ち込まれると、「あの事務所なら受けてくれるかもしれない」と、いつも振ってしまうんだと言っていたくらいだ。事件の発端となったオウム信者の事件も、もちろん、困難で、お金にならない事件の一つだ。

 そんな、誰もが尻込みするような事件を抱えていながら、それでも坂本先生が弁護士として曲がりなりにもやっていくことができたのは、言うまでもない。報酬をもらえる人からもらっていたからだ。もらえるところからはもらう、その代わり、無い人からは取らない、というのは、かつて、弁護士の背骨を支える大事な信条の一つだったと思う。

 考えてみれば、おかしな話で、特に報酬をもらわれていく方からすれば、不公平この上ない。しかし、この仕組みがなければ、金にはならないが社会的に意義が大きいという事件は、ことごとく日の目を見ないことになってしまう。

 少しでも弁護士を安く使い倒そうという経済至上主義の視点からは、こんなことは許されざる不合理なのだろうが、坂本先生が利益を度外視してオウム信者の事件を拾い上げていなければ、オウムは地下に潜ったまま、ある日突然、本当に国家を転覆させていたかもしれないのだ。

 弁護士の経済的余裕が失われれば、金にならない人権救済活動ができなくなってしまうという弁護士会の言い分に、マスコミは極めて冷淡だが、これが、なぜそうも非難されなければならないのか、私には理解できない。

 下手をすれば命も落としかねないような仕事でも、それが人権を守るために必要なら身を投じてみようという弁護士は、いまでも多数派だ (そうでないのだとしたら、それは、法曹養成制度が根底から腐ってしまったことの証左だろう)。

 そういう弁護士にとっては、権益は二の次だが、それでも、少なくとも、生きて事務所を維持していかなければ、他人のために命をかけることもできない、当たり前のことではないか。



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